富士自転車をアメリカ市場で開花させた男・守屋健
「日本人の底力、不屈のバイク魂」 ミッドタウンにある小さなバーで夕方、その人と会った。品のいいチェック柄のシャツにベージュのチノパンツ。今年70歳になられると聞いていた。日本の同年輩の人たちとは少し雰囲気が違う。多分体躯も日本人にしては大きい方だろう。日本から初めてフジ自転車を持ち込み、アメリカ市場で見事に開花させた人物、守屋健——。激動の40年を今から話して貰うのに、わずか小1時間しかない。逸る気持ちを抑えて、その日本人の底力、不屈のバイク魂を駆け足で聞いた。 ◇ アメリカでの自転車販売台数と利用者数は、ヨーロッパと比べて比較にはならないくらい遅れを取っているといわれる。しかし、そんなアメリカでも近年、販売台数は2000万を超え、1億人以上が所有。この増加傾向はウナギ上りだ。もちろん石油価格高騰も一因だろうが、深刻な肥満対策の一つとしてエクササイズに自転車を取り入れているという点が、いかにもアメリカらしい。 ◇ 1961年11月、彼は「三郷陶器」の駐在員として、25歳でニューヨークに渡った。同社の入社理由も「アメリカに駐在できると聞いたから」という。駐在してから約9年、帰任命令を受けたその時には、既にアメリカ人の妻と娘がいた。 「家族との生活を考えると、日本へ連れて帰ることなんかできなかったな当時は」 帰任と同時に退職願を提出、潔く脱サラの道を選んだ。ここアメリカで自分ができる、自分を活かせる仕事——それは、自転車だった。 彼の家系は父が「ゼブラ自転車」(1976年5月岡本理研ゴム=現オカモト=と合併)の社長、祖父は「日米商店=日米富士自転車」(現フジ・アメリカ)の創設者の1人と、生まれながらにして自転車とは縁が深い。当時、アメリカでの自転車市場は「シュイン(Schwinn)」が独占していた。1970年、彼は祖父が作った自慢の富士自転車を、このシュイン一人勝ちの市場に何とか食い込み活路を見い出すことを決意する。 初めの第1歩は、夫婦でできる小売店をNJ州パラマス・アベニューでスタートさせることから始まった。まずは銀行からの融資が必要だった。 「何のコネもなく銀行を訪れても答えは分かりきっている、ノーだ。だから緻密な計算を基に作った膨大な量の事業計画レポート(売り上げ見込み)を各行に持ち込んだんだ」 そして彼は1行から5万ドル融資するという回答を得た。1970年7月、1ドルが360円の時代だ。これを元手に、商品の仕入れと店の開店準備資金に回した。当時、富士自転車のアメリカでの販売権は、大手食品商社「東食アメリカ」が持っており、まずその門を叩き50台。そして父が経営する日本のゼブラから2000台を買い付けた。 しかし、町の自転車屋になるための何の技術もない。商品はすべてパーツの状態で送られてくる。融資を受けたからには1日も早く店をオープンさせなければならない。 「ほら、ココ見て。未だに傷が残ってるだろ。1か月、日本の叔父貴の店と日本の富士自転車の工場に修行にいったんだ。店の準備はすべて妻に任せてね」 彼は笑いながら手を見せる。毎日、毎日、明けても暮れても自転車の組み立てを何度も繰り返した。 「叔父貴の店は東京のデパートの何店鋪もお得意さんでね。外商とか商品の配達にも自転車が利用されてたんだよ。とにかく毎日の修理だけでもすごい台数なんだ」 融資から4か月、冬になった。自転車の季節ではない寒い11月18日、店がオープンした。待てど暮らせど、お客は来ない。それもそのはず、その頃アメリカで出回っていた自転車の価格は65ドル前後、彼が売る富士自転車は99ドル95セント。1・5倍以上もする高価な日本製の自転車が、この寒い冬に売れる訳はない。当月販売台数1、見知らぬアメリカ人が買ってくれた。歳末商戦が始まった12月の販売数は13台、何とかこれで年が越せる。 1971年、東食の傘下となり富士アメリカ社を設立。ディストリビューターをNJやペンシルバニアに持ち、工場も作って彼の事業計画はグングン伸びた。富士に続けと日本の宮田、パナソニック、丸石などが相次いで上陸。 リードする富士は1974、1976年と立続けにコンシューマー・リポートの自転車テストで上位にランキングされた。販売台数も年間1万台を突破。アメリカ市場で認知され「高級自転車」のイメージを掴んだものの、やはり既存の販売店での新規開拓は難しく、もはや頭打ちかと思われた丁度その時、ヒッピーと呼ばれる伝統や制度などの既成の価値観に縛られた社会生活を否定する若者たちの間で「富士」がウケた。 ベトナム戦争の終結前後、彼らが経営する小売店約8000件の店頭にズラリと富士自転車が並んだ。77〜78年にかけ、販売戦略はシカゴ、ロス、ロングビーチとどんどん西へと侵攻し、さらにヨーロッパまで広がった。 年末も押し迫った97年12月18日、親会社の東食が会社更生手続きを申請。 「あっ、これから話すことは、書かないでよ」 年が明け元旦早々、日本から管財人らが会社にやってきた。突然、巨額の借金を背負うことになったという。会社は勢いづき順風満帆にいけるかに見えた矢先のことだった。家族始め、100人もの従業員を路頭に迷わせるわけにはいかない。 「ノーウエイ。独立するしか道はない」 先見の明があったのだろう。その頃、既に彼は日本の日米富士自転車の協力を得て、台湾で現地工場を立ち上げ、日本から技術者を送り込んで現地工員の指導と育成に当たっていた。 「その頃の日本は技術が盗まれるからって、どこもアジアに乗り出すのに反対でね。でも富士だけは違ってた。それなら日本から技術者を連れて行けってね」 結果、コストを低く抑えた高技術製品の生産に成功、世界に向け出荷させた。今では、台湾に変わって中国が世界最大の生産国になっているが、当時、台湾に目を付けたのは、唯一彼だけであった。それから数年後、その富士アメリカ社は元より日本の日米富士自転車など、すべてこの台湾の会社「アドバンス・スポーツ(Advanced Sports, Inc.)」に吸収されることになった。 ◇ 「そういや、ユーイングの自転車も作ったな」 ニックス時代、パトリック・ユーイングがNJのフォートリー近くに住んでいた頃、巨大な身体を乗せて走るのに耐えられる1台を彼自身の手で作ったという。 FUJI BIKEと名を変えて、今や世界の一流ブランドとなったニッポンの自転車。NYのバイシクル・ポリスが自転車に颯爽と跨がり猛スピードで街を走りゆくその姿を、誰もが1度は見かけたことがあるだろう。そう、あれが彼が初めて日本からアメリカに持ち込んだ「富士」である。(敬称略) ●プロフィール=守屋健(Takeshi Ken Moriya)=1936年東京都麻布生まれ。70歳。幼稚舎から大学まで一貫した慶応ボーイ。59年大学卒業後、三郷陶器入社。61年駐在員として渡米(ニューヨークオフィス勤務)。70年退社後、独立。71年富士アメリカ社設立。妻のクレア夫人との間に愛娘のミッシェルさんが1人いる。ニュージャージー州フランクリンレイク在住。趣味は読書(推理小説)とゴルフ、麻雀。 2006年3月31日号(vol.119)掲載
by tocotoco_ny
| 2006-03-27 15:02
| 2006年1〜12月号
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