人気ブログランキング | 話題のタグを見る

●<toco流>1970年のコンニチワ!/70年に開催された大阪万博

●<toco流>1970年のコンニチワ!/70年に開催された大阪万博_f0055491_4153573.jpg ■それは人類が幸福な未来を夢みたエキスポだった——。
 愛知県で21世紀の万博「愛・地球博」が先週から185日間開催されている。同博初期のポスター(写真左)で「人生一度は万博だ。」というヘッドコピーを、たまたま見つけてしまった。このコピーを創ったコピーライターは、何歳くらいの人なんだろう?人生で2度目の万博を迎える日本人は、かなり多いと思う。35年前に開催された「大阪万博」を知る人たちも、快くこのコピーを受けとめているのだろうか?「人生一度は万博だ。」で人々に何を呼びかけ、何を印象づけようとしたコピーなんだろう——。●<toco流>1970年のコンニチワ!/70年に開催された大阪万博_f0055491_4372081.jpg
 21世紀万博の幕が開いた。最新テクノロジーを駆使した技術の競い合いといったところか——。今から35年前の1970年(昭和45年)3月15日「人類の進歩と調和」をテーマに、大阪万博が開催された。当時の万博もコンピューターやロボットが登場し、近い未来に希望を持たせるといった内容だった。そして35年、人類は技術進歩を遂げ誰もがコンピューターを操り、歩きながら携帯電話で話す時代となった。激動の昭和の時代に誰が、今のこの時代を予測できただろう。という訳で今回は、この大阪万博に基づいて、昭和45年当時を振り返ろうと思う。
■それは1ドル360円の時代だった
 360円出しても1ドルしか買えなかった。初任給が大卒4万961円、タクシーの基本料金が130円(東京都)の時代。海外の国々やそこで暮らす人々は遠い遠い存在だった。当時、国内に住んでいた外国人登録者数は約70万人でうち表面的に外国人と区別がつきにくい韓国・朝鮮、中国人を除くと、わずか約4万人だったという。
「万博=農協団体」というイメージも残る。地方から一斉に農協さんが群れを成して黄色の簡易帽子を被って列を成していた。そう万博が始まり、その効果をまざまざと知らされたのは国鉄で、その産物が「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンだ。新幹線をはじめ各路線の乗客は確実に増え、同キャンペーンが国鉄延命への一助にもなった。万博にわき、国産宇宙衛星の打ち上げ成功にわく一方で、急速な経済成長に起因する公害問題が発生。大気汚染、光化学スモッグ、ヘドロの活字が新聞を賑わせ始めたのもこの頃だ。排気ガスや騒音などのクルマ公害から逃れるがごとく出現したのが「歩行者天国」。一方、外食産業も一変する。万博会場に「ケンタッキー・フライドチキン」1号店が登場(日本ケンタッキー・フライドチキン=三菱商事と米国ケンタッキー・フライドチキン対等出資)。しかし同店にはカーネル・サンダース人形はなく、同年、名古屋にオープンした店からサンダースは登場。ダンキンドーナツ及びミスタードーナツの国内展開が決まったのも同年だ。
 学園紛争が沈静化し、若者たちの間に何をやっても熱中できない「しらけムード」が広がる中、時世をあらわす内ゲバという流行語に端を発した巨泉・前武の「ゲバゲバ90分!」がヒットした。世はサイケデリック絶頂期となり不良外人やヒッピーと呼ばれる人々が街に溢れ、そのライン上に反戦を謳うフォーク歌手がドンドン誕生していった。そんな中、羽田発福岡行の日航旅客機「よど号」が赤軍派学生ら9人に乗っ取られ、日本でのハイジャック第1号となった。犯人らの要求は北朝鮮への亡命。未だにメンバーの何人かは北朝鮮で暮らしている。●<toco流>1970年のコンニチワ!/70年に開催された大阪万博_f0055491_421168.jpgそして、万博のシンボル「太陽の塔」先端の黄金の顔の右目の中にも赤軍派を名乗る男が「万国博をつぶせ!」と159時間も篭城。立て籠った男の名は佐藤英夫だが、後々も「目玉男」(写真左)と呼ばれ続けた。6月、日米安保条約の自動延長が決まった。その5か月後、作家の三島由紀夫(当時45歳)と「楯の会」のメンバー4人が市ヶ谷の陸上自衛隊で総監を監禁し、自衛隊員にクーデターを呼びかける「三島由紀夫事件」があった。三島は憲法改正演説後、楯の会会員1人と割腹自殺している。
 娯楽の面で子供たちが夢中になったものはハレンチもので、永井豪の漫画「ハレンチ学園」が映画化及びテレビドラマ化され、このハレンチな流れは翌年の日活ロマンポルノへと受け継がれていく。「ドラえもん」「ド根性ガエル」の連載が始まったのもこの年。雑誌「anan」が創刊し、アンノン族と呼ばれるトレンドセッターが街を闊歩する一方、テレビでは泥臭い根性ドラマ「細うで繁盛記」が流行。続いて人情ドラマ「時間ですよ」「ありがとう」に釘付けとなり、子供は「あしたのジョー」で乱舞する。そして世の妻はスター同士の疑似お見合い「ラブ・ラブ・ショー」が楽しみとなり、娘は「アテンションプリーズ」でスチュワーデスを夢見て、オヤジたちは永六輔の「遠くへ行きたい」で静かに故郷を懐かしみ癒されていた時代だった。
 この年を象徴する言葉は「モーレツからビューティフルへ」。このコピーは富士ゼロックスのCMで、歌手の加藤和彦がヒッピー姿で「Beautiful」の文字を見せながら都会をぶらぶら歩くという内容だった。高度成長を支えたモーレツ主義、エコノミック・アニマルぶりを反省して「人間らしく生きていこう」と、考えを改める転換期の年だったのかも知れない——。

2005年3月31日号(vol.97)掲載
by tocotoco_ny | 2005-03-30 15:11 | toco流
<< March, 31. 2005... vol.07■Tustex F... >>