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vol.123/最悪—9<黒須田 流>

 その二階建てのビルには、扉が二つあった。
 信治とケンは、右側の扉を開けて中に入った。

 入口のすぐ左横に、小さなカウンターがあり、身体の大きい白人のオヤジが椅子に座っていた。
 オヤジは、信治の顔を見ながら、
 「Hi, How are you?(元気かい?)」と、久しぶりに、旧友と再会したような声で挨拶した。
 信治は、「Good」と、短く、応え、少し笑った。
 信治とケンが、それぞれ5ドルずつを、オヤジに渡した。
 そして、オヤジは、ケンを見て、
 「Jesus ! What a fuckin' handsome boy ! (なんて男前なんだ)」と、感嘆の声を上げ、「Is he your boyfriend?(オマエの彼氏か?)」と、ケンを指差しながら、信治に訊いた。
 「Fuck You ! 」信治は、笑いながら、左腕を上げ、中指を立てた。
 
 オヤジは、カネを受け取ると、表紙に走っている馬の写真が載っている小さなパンフレットを二冊、カウンターの上に置いた。
 二人は、そのパンフレットを持ち、カウンターに置いてある、10センチほどのエンピツがたくさん入った箱の中から、1本ずつエンピツを取り出した。
 信治は、上へと続く階段をチラッと見上げたが、別の扉を開け、下りの階段を降りていった。
 「Good Luck!」
 二人の背中に、オヤジが声をかけた。

 階段を降りたフロアは、かなり広いスペースである。ふかふかの絨毯が敷かれ床の上には、木製のテーブルや椅子が並んで置かれている。そして、壁には、数十台のテレビモニターが掛けられていた。

 「OTB(Off Track Bettingの略)」。日本で言う、「場外馬券場」である。
 「OTB」はマンハッタン内に全部で20カ所ぐらいあるが、こうしたレストラン形式になっている場所は、ここの他に2、3カ所しかない。
 また、ほとんどの「OTB」は、通りに面したビルの1階にあり、上のフロアは、まったく別の店鋪やオフィス等になっている。ここのように建物全体が「OTB」と、いうのは珍しい。
 信治達は地下の部屋を選んだが、2階も同じように、レストラン形式になっている。信治が、チラッと階段を見上げたのは、どちらのフロアにするか、一瞬、考えたからである。

 このビルには、信治達が入った扉の他に、もう一つ別の扉があったが、こちらは一般的な「OTB」の出入り口である。
 つまり、1階は、馬券売場だけがある極普通の「OTB」であり、地下と2階はレストラン形式なっていて、食事やドリンクを飲みながら、競馬を楽しむことができるのである。

 「馬券が買える」「レースが観れる」と、いう点では、どちらも共通しているが、異なる点も多々ある。
 まず、全体の雰囲気が明らかに違う。それは内装とかインテリアといった物質的なことだけでなく、客として来ている連中の、かもし出す空気というか「匂い」のようなものが違う。
 第四コーナーをまわり、直線に差しかかった時に、応援したり、奇声をあげたりして興奮するのも同じだが、普通の「OTB」では悲愴感が漂い、レストランの方には、どことなく、余裕が感じられる。

 次に、一般の「OTB」は、入場無料だが、レストラン形式の場合は、入場料として、「5ドル」を払わなければならない。信治達が、オヤジに渡したカネは、その入場料である。その代わりに、当日のレースプログラムがフリー(タダ)でもらえる。信治達が受け取った、小さなパンフレットは、その日の「レース・プログラム」だった。
 この「レース・プログラム」には、全レースの出走馬の名前をはじめ、馬齢、ジョッキー、トレーナー、オーナー、種牡馬、過去の戦績・タイム……など、いろいろなデータが載っている。
 普通の「OTB」では、出走馬とジョッキーの名前が印刷された「ぺラの紙」しか置いていない。「レース・プログラム」もあるのだが、2ドルで売られている。
 入場料5ドル内、2ドルをプログラム代として考えるならば、入場料は実質的には「3ドル」ということになる。

 ただし、レストラン形式の場合には、一人あたり、15ドルのミニマム・チャージがかかる。
 これは、食べても食べなくても、「食事代」として、お一人様、最低15ドル以上は、カネを置いていってもらいますよ。と、いうことである。
 つまり、レストラン形式の「OTB」を利用するには、少なくとも、一人20ドルは必要となる。

 それと、もう一つ大きな違いがある。
 「OTB」では、ニューヨークだけでなく、全米各州で開催されているレースの馬券が買える。
 ただし、地元の競馬場と「OTB」では、当たった時の配当金が若干異なる。
 たとえば、競馬場での配当金が100ドルだとすると、「OTB」では、それが98ドルになる。「2ドル」は「OTB」のコミッション分であり、それが「OTB」の「アガリ」になる。
 ちなみに、配当金の表示だが、日本では100円が基本だけれど、アメリカでは、一般的に2ドルがベースになっている。時々、旅行者達が日本の感覚のまま配当額を見て歓び、実はその半分だと後になってから知り、がっかりしたりする。
 さて、競馬場と「OTB」では、配当金が異なるのだが、レストラン形式で購入した場合には、地元の競馬場と同じ配当金が支払われる。つまり、「OTB」のコミッションは引かれないので、その分「お得」というわけである。ただし、当たった場合であるが……。

 こうした諸々の事を含め、「20ドル」が、高いか、安いかは、それぞれ意見が分かれるだろうが、信治は、ここに来る度に、いつも思うことがある。
 もしも、この建物が、ガラス張りで出来ていたなら、アメリカ社会の縮図が一目でわかるだろう——と。

 1階にある普通の「OTB」を利用している連中の多くは、身なりも貧しく、落ちている馬券を拾っていたり、クンクリートの床に新聞を敷いて座り込んでいたりする。
 それが、壁を1枚隔てた所では、肘掛けの付いた椅子に座り、ワインを飲んだり、分厚いステーキを食べながら、競馬に興じている。

 だからかといって、信治が、社会のあり方や人生に結びつけ、深く考えているわけではなかった。これも、一つの「現実」として受けとめているだけである。
 ただ、こうして、右側の扉から入り、肘掛けのある椅子に座れる自分に、優越感というより、安堵感に近いものを感じていた。(続く)
Writer 黒須田 流 
(原文まま)
*掲載号では、校正、編集したものを発行*
*お知らせ* 同コラムのバックナンバーは「アンダードッグの徒」のオフィシャルサイトの書庫に第1回目から保管してあります。お時間のある方は、そちらへもお立ち寄りください
2006年6月30日号(vol.125)掲載
by tocotoco_ny | 2006-06-27 14:28 | アンダードッグの徒
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