vol.125/特集「Marcel Duchamp」

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f0055491_13354843.jpgDadaismを単に楽しみ、知的に冷笑したい。
■先週からMoMAで「DADA」展が開催されている。今回のダダは巡回展で、昨年10月にパリのポンピドゥ・センターを皮切りに、ワシントンDCのナショナル・ギャラリーでも話題となり、今夏、漸くNYに廻ってきた。前評判で期待に胸を膨らませ、待ちに待っていた人も多いだろう。NYの日系フリーペーパーやブログ、ネットなどで「今展示会はアメリカでダダのみを取り上げた初の展示会」「アメリカでダダ展を大々的に開催するのは、今回が初めて」などといった情報が出回っているが、これは間違っていると思う。私でさえ、約10年前にホイットニー美術館での「DADA」展を鑑賞しているから、全米初の大々的なダダ展ってことは決してないはず。同展の作品点数は400、50人ものダダイストによる作品を一挙に展示していることからだろうか? いやいや、この問題はさておき、この「DADA=ダダ」。NYに暮らしていることも手伝って「Dadaism=ダダイスム」を知っている人も結構多いかも知れない。しかし、こんなマニアックな作品群を直に目に触れて見る機会も少ないので、単に言葉で「ダダ」を知っていても、実際、出向いて、アートと称される「変なモノたち」をご覧になった人は、あまりいないのではないだろうか。さて今回、日頃アートに全く無関係で全然興味のナイ人に「えっコレ、アート?」「こんなんでイイの?」「すごくヘン、何かヘン?」と首を傾げて貰いたくて、ニューヨーク・ダダの1人、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp/1887-1968)をご紹介。
f0077769_1533308.jpgナイフが突き刺した単語 {dada}
■まず始めに「ダダイズム=ダダ」を簡単に説明すると、1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことで、第一次世界大戦中、戦争に対する抵抗や戦争によってもたらされた虚無を根底に、既成の秩序や常識に対する「否定、攻撃、破壊」といった思想を意味する。
 この「dada」の名称は、第1次大戦中の1916年、チューリッヒで反芸術な文芸運動を展開しようとしたルーマニアの詩人トリスタン・ツァラが、無作為に辞書にナイフを突き立てたところ、その刃先がフランス語で「木馬」、スラブ系で「相槌」を意味する「dada」という単語に突き刺さったことから、そう呼ばれるようになったと言われているが、明確な根拠はない。そのツァラが、ヒューゴー・バルやハンス・アルプ、リヒャルト・ヒュルゼンベックらとチューリッヒ・ダダを創始。これらのダダイズムはチューリッヒ以外にもベルリン、ケルン、ハノーヴァー、パリおよびニューヨークなどで同時期、かつ多発的に、相互に影響を受けながらドンドン広がり進化していった。これら創始者たちに刺激を受けたダダイストたちは「アサンブラージュ」「コラージュ」「フォトモンタージュ」などの技法を駆使して造形作品を相次いで制作。しかし、1922年頃には「チューリッヒ・ダダ」のツァラと「パリ・ダダ」のアンドレ・ブルトンが対立し、ダダから脱退したブルトン派は、その理念や技法を「シュルレアリスム」へと継承していく。これらを前後に、ダダは勢いを失ったと言われている。

既成概念を全否定する {NEW YORK dada}
■「ニューヨーク・ダダ」は、チューリッヒなどで起こったダダとリンクしてはいるが、その発生は完全に独立したものであるらしい。ニューヨーク・ダダを象徴する作品は、マルセル・デュシャンのレディ・メイドの作品群が挙げられる。デュシャンは1913年、アメリカ初の大規模なヨーロッパ現代美術展「アーモリー・ショー」へ出展するためフランスから初めて渡米し、「階段を降りる裸体No.2」を含む4点を展示して話題となり脚光を浴びた。その2年後、彼は第一次世界大戦中の1915年、再びアメリカに渡り、そのまま居着いてしまっている。自分が拘わっている「芸術」そのものを、高貴な場所から引きずり降ろして、皮肉り、知的に冷笑するという制作に対する姿勢は、既成の価値感や概念を全否定するダダの典型であるとも言われる。また、ニューヨーク・ダダは、パリとは異なり「シュルレアリスム」に向かわなかった点も大きな特徴という。ダダイストたちがフォトモンタージュを好んだことからも分かるが、写真家として有名なマン・レイもニューヨーク・ダダの中心人物。また彼らの他に、デュシャンが最も影響を受けたと言われるフランシス・ピカビアもメンバーだ。

姿勢の根底には芸術への懐疑が潜んでいる
■秘密結社のコード(暗号)を解読しながらキリストの謎に迫っていく「ダ・ヴィンチ・コード」が話題を呼んだが、デュシャンもまさに、そのコード的な言葉遊びを作品に多用している。20世紀の芸術に大きな影響を与えたと言われるデュシャンが、唯一意識していたアーティストこそ、レオナルド・ダ・ヴィンチである——。
f0055491_14383793.jpg 1887年7月28日、彼は7人兄弟の3男、アンリ・ロベルト・マルセル・デュシャンとして、ノルマンディー近くのブランヴィルという街で生まれた。父親は公証人で寛大という記述があるが、母親については残されていない。ただ生家は母方の祖父が集めた彫刻や絵画に囲まれ、中産階級よりやや裕福な家庭で育っている。
 12歳離れた長男のガストン・ジャック・ヴィヨンも、11歳年長の次兄、レーモン・デュシャン=ヴィヨンもそれぞれ画家、彫刻家として知られている。1902年、彼は兄らの影響を受け15歳で絵を描き始め、地元の高校を卒業後、1904年パリに出て兄らと合流。パリの美術学校に入学するが、在学中は殆どチェスとビリヤードに没頭。またパリの新聞社でマンガ家としてアルバイトもしていたという。
 1912年、出世作「階段を降りる裸体」など、集中して油絵を描いていたが、網膜的な絵画に懐疑と嫌悪を感じ出して以降、油絵を放棄する。その要因の1つと言われているのはレーモン・ルーセル作の舞台「アフリカの印象」で、彼はこの舞台から何かを掴み取り、普遍的な方法を学んだと言う。後に一緒に舞台を見たピカビア、アポリネール、ビュッフェたちとスイス国境を縦断する旅に出て、その時、ジュラ山脈のドライブ中に取ったメモ「パリ=ジュラ」が基となって、俗に「大ガラス」と呼ばれる「彼女の独身者によって裸にされた花嫁、さえも」(写真左)を構想。1915年に制作を開始する。しかし、代表作となった同作品も未完のまま発表され、1923年には放棄している。
f0055491_14393256.jpg この「大ガラス」は彼の仕事を語る上で欠かすことはできない。高さ約2.7メートルの2枚の透明ガラスの間に、油彩、鉛の箔、ホコリで色付けした作品で、正確には、難解で哲学的なメモ類を箱に入れた「グリーン・ボックス」や、ハプニングによって作られた楽譜「音楽的誤植」にも同タイトルが付けられており、これら全てで1つの作品と考えられている。彼自身はこの作品について晩年の1966年、ピエール・カバンヌによるインタビューで「何の考えもなく造った」と話している。またガラスのヒビ割れは、搬送中、取り扱い不備よってできたモノだが、彼は「作品に新たな要素が付け加えられた」と手放しで喜んだという。
 25歳で油絵を放棄した彼は、「レディメイド」と称される既製品に、少し手を加えたものを散発的に発表する。最初のレディメイドは1913年制作の「自転車の車輪」(写真右)といわれる。これは台所用のイスに自転車の車輪を取り付けた作品。翌1914年には「ビン掛け」(写真左)というトタン板製のビン乾燥器を発表している。f0055491_1440416.jpgこれら2作品のオリジナルは、彼が去った後のアパートを妹のシュザンヌが掃除した際、処分したという。1915年の「折れた腕の前に」(写真右)は、雪かき用のシャベルを天井から吊り下げたもので、最初の意識的なレディメイドと言われている。彼は同作品を発表後、ニューヨークへ移住している。f0055491_14465652.jpg
 その後、ニューヨークで行なわれた「アンデパンダン展」にR.MUTTという偽名でサインした男子用の小便器作品「泉」(1917年=写真下)を出品。この偽名の「MUTT」は「ばか」「のろま」といった意味の俗語で、NYの衛生陶器製造会社「Mott & Works」をもじり、かつ当時の新聞に掲載されていた人気漫画のキャラクターの名前でもあるという。f0055491_14414645.jpg同作品にはまだまだエピソードがあって、実は、彼はこのアンデパンダン展(規定出品料6ドルを払えば誰でも出品できる無審査展)のボードメンバーの一員であることを隠して偽名で「泉」を出品。しかし展示されなかったことから、抗議文を新聞に発表しメンバーを辞任して物議を醸した。最終的には「作品紛失」という顛末となって同展は閉会している。これらの件について後年、彼は「展示が拒否されたのではなく作品は会期中、仕切り壁の背後に置かれていたらしい。自分も作品がどこにあるか知らなかった」と話している。紛失した「泉」は展示に反対していたメンバーが意図的に破棄したとの噂もあるが、この騒動で、いかにこの作品が芸術の枠に収まらず、当時、周りからの拒否反応が強かったかということを物語っている。仕切り壁の背後に置かれていたとされるオリジナルは、アルフレッド・スティーグリッツによって撮られた1枚の写真のみを残し、行方知れずとなっている。「泉」は第2次世界大戦後に何度か再制作され、1964年、ミラノの「ガレリア・シュワーツ=Galleria Schwarz」が彼の許可を得て、限定版の8つのレプリカを製作したものが、現存する唯一の作品だ。
f0055491_1442293.jpg 作品の名に言葉遊びを多用する彼は、さらに、ダ・ヴィンチの「モナリザ」を印刷した絵葉書にヒゲを描き加え「L.H.O.O.Q」(1919年=写真左)というタイトルをつけて出品。「L.H.O.O.Q.」はフランス語で素早く読むと「エラッシュオーキュー(Elle a chaud au cul)」と同じ発音になり、意味は「彼女の尻は熱い、彼女は性的に興奮している」になる。また同時に、英語では「見よ(LOOK)」にもなるという解説もある。最も笑えるのは、1965年に「髭を剃られたL.H.O.O.Q.」というタイトルで、ごく一般に市販されている「モナリザ」のカードにサインしただけのものも彼の作品として数えられている。これらの他にも、彼のアメリカでのパトロン、ウォルター・アレンスバーグ夫妻にパリ土産としてプレゼントした「パリの空気50cc」(1919年)など、多数存在する。
 これらのレディメイドは、基本的に何らかの形でオリジナルは紛失してしまっていて、現在、目にすることのできるのはレプリカか写真による複製に限られるが、主要作品のほとんどをアレンスバーグ夫妻が所有し、それらは全てフィラデルフィア美術館で一括展示されている。
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デュシャン以降、一体何が制作できるのか——
 彼が「ローズ・セラヴィ(Rose Seravy、後にRrose Seravy)」という女性名を名乗り、生涯の友、マン・レイに女装写真(右)を撮らせ、両性具有を装うのは1920年のことである。こRrose Seravyについては、某パーティで、彼がピカビアの絵に「Pi qu'habilla Rrose」(意味は「ローズが着せたPi=π」となるらしい)と寄せ書きをしたことに始まるという。音としては、ピカビアの名「Picabia=Pi qu'habilla」とローズの名が同時に潜み、文字の並びから「aRrose(水を注ぐ)」はバラの意にも結びつく。これがふたつのRの起源と示した上で彼は「すべては言葉遊び」とそっけなく答えたという。別な場所では「子音の反復で始まる言語に興味があった」とも語っている。また、これら全ては、チェスに関係があるという意見もある。Rが2つ重なることはそのまま盤上両端にいるルーク(ROOK)を意味するという。ちなみに、モナリザの「L.H.O.O.Q」もルーク。RとLの違いを「Right、Left」とすると、まさにルークの所定位置となる。また便器の「泉」の偽名R.MUTTのRもルークだ。*余談だが、これらチェスに関する「不可解な暗号の解読」については、最近ベランダーとしても幅広く活動するクリエイター、いとうせいこう氏の「55ノート」に異常に詳しく明記されている。彼の「デュシャン研究」は日本のどんな研究者よりも説得力があり、かなり興味をそそられる。
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 そして1942年、55歳でニューヨークに定住して以降、彼は芸術家らしい活動はせずチェスのみに没頭している。また1954年1月16日、彼は67歳でアンリ・マチスの息子、ピエール・マチスの元妻、アレクジーナ・ザットラー(Alexina Sattler)と結婚し、市内東58丁目327番地に暮らしていた。妻とは彼が死ぬまで寄り添ったという。その後、彼がパリ近郊のヌイリーで81年の生涯を終える1968年10月2日までの足どりについては明らかにされていない。
 しかし、死後「遺作」と呼ばれる作品が発表された。この「遺作」の正式タイトルは「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」(写真左)で、スペイン・カダケスの古い木の扉(板塀)に穴が開いていて、その覗き穴から中を見ると、右奥には光の効果によって実際に水が流れているかのように見える滝があり、滝のある風景の中に左手でランプを掲げた少女の裸体が性器もあらわに横たわっているという立体作品だ。制作を断念し沈黙していたはずの彼が、後半生、ひそかに20年(1946〜1966年)もの年月をかけて造っていたこの「遺作」は、彼の遺言どおりフィラデルフィア美術館で永久展示されている。
 ダ・ヴィンチを意識したマルセル・デュシャン。彼が世に送りだした難解な作品の数々によって、後の芸術家たちは「デュシャン以降、何が制作できるのか」と頭を抱え、苦しみに似た感情さえ抱いている。最後のナゾ、彼の墓碑には、彼の指定で「されど、死ぬのはいつも他人」と刻まれているという——。

*特集参考資料:「Janis Mink: Duchamp / Art as Anti-Art」(Benedikt Taschen / TASCHEN発行)
*関連エッセイ「THE untitled」もどうぞお立ち寄りください。
以下写真のキャプションf0055491_69415.jpg
Bicycle Wheel, 1913.
Readymade : bicycle wheel, diameter 64.8cm, mounted on a stool, 60.2cm high, original lost Milan, Collection Arturo Schwarz.

In Advance of the Broken Arm, 1915.
Readymade : snow shovel, wood and galvanized iron, 121.3cm New Haven (CT), Yale University Art Gallery, Gift of Katherine S, Dreier for the Collection of Societe Anonyme, 1946

The Bride Stripped Bare By Her Bachelors, Even, 1915-23.
Oil, varnish, lead foil, lead wire and dust on two glass plates mounted with aluminum. wood and steel frames, 272.5x175.8cm. Philadelphia Museum of Art, Bequest of Katherine S. Dreier

Bottle Rack, 1914/1964.
Readymade:bottle rack made of galvanized iron, original lost, 59x39cm. Collection Diana Vierny

Fountain, 1917/1964.
Readymade : porcelain urinal 23.5x18cm, height 60cm. Milan, Collection Arturo Schwarz.

Reproduction L.H.O.O.Q., 1919. from Box in a Valise
Assisted readymade:pencil on a reproduction of the Mona Lisa, 19.7x12.4cm. Philadelphia Museum of Art:Collection Louise and Walter Arensberg

Duchamp as Rrose Selavy,c. 1920.
Man Ray: Black and White Photograph
Milan, Collection Arturo Schwarz.

Given: 1. The Waterfall, 2. The Illuminating Gas, 1946-66.
Mixed media assemblage: an old wooden door, bricks, velvet, wood, leather stretched on a metal frame, twigs, aluminum, iron, glass, plexiglas, linoleum, cotton, electric lights, gas lamp, more, etc., 242.5x177.8x124.5cm. Philadelphia Museum of Art, Gift of the Cassandra Foundation (view through the door of the installation)

2006年6月30日号(vol.125)掲載
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by tocotoco_ny | 2006-06-27 15:00 | 2006年1〜12月号
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