vol.152/時代の何が変わったのか?<友野コージ>

 10歳になる小学5年生の僕の息子は、幼稚園の頃はガキ大将のような存在でよくケンカもしていたが、小学生になるとどちらかと言えば優等生のような存在になり、先生から「まとめ役」を任されたりしているという話を聞いて僕は少し寂しい気がしていた。せっかくなら学校をかき乱すような存在であって欲しいという気持ちが僕にあったわけだが、最近、どうやら表向きは優等生のように見せていて、陰で悪ガキ達を操っているのは息子だという噂が父兄達の間で流れはじめて、僕は少し嬉しくなった。少し嬉しくなったという「少し」という意味は、先日息子にもアドバイスしたのだが、「悪いことをやるなら、他の子にやらせるのではなく自分で堂々とやれ」という気持ちがあったから「少し」なのだ。
 現在、クラスの間で問題になっていることは、子供達の間でゲームのカードが流行していて、そのカードを息子が友達に1万円で売ったという話題である。そのことを周りで見ていた子供に聞いたお母さん達が、「額が多すぎるから返すべきだ」とか「1万円払った方の子供はお母さんの財布からお金を盗んでいるらしい」とか「子供達で解決できる問題ではないから相手のお母さんにも状況を話した方がいい」などと、僕の息子の母親、つまり僕の妻に話しているのだ。それを相談された僕は「どちらかが強制的に売ったり買ったりしているのならともかく、ましてやどちらかがカードや金を盗んだ分けじゃなく、話し合った結果そうなったということは子供なりに商取引をしたということであって、それの何がいけないのか俺にはわからない」と答えた。それでも妻は、他のお母さんからとやかく言われているもんだから、「1万円というのは額が多すぎるから」と僕に言って、何とか息子に1万円を返すように促している。そこで、僕の子供時代のことを思い出してみた。僕の小学校時代には、ハリハリ仮面というお菓子の付録に入っているシールが流行っていた。またベースボールカードというのが流行しているときもあった。クラスのなかで、もっとも多くハリハリ仮面のシールを集めている者が、緑の下敷きにそれをきれいに並べて貼っていた。それを見た僕は、下敷きを手にして「これ、もらっておくわ」と言って、その下敷きごと奪っていた。ベースボールカードも同じように人のものを奪っていた記憶がある。内緒で盗んだりすることは一度もなかったけれど、なかば強制的に人のものを取りあげていたのである。これは、自分でやっておいて言うのもなんだけれども、本来やってはいけないことである。しかし、学校では何の問題にもならなかった。中学にあがると、金持ちのあるクラスメイトが、僕の仲のいい友達によくいじめられていた。僕はそのいじめられている人間を慰めたりしていた。そして、慰めた後に「山口百恵のレコードが欲しいなあ」とひとりごとのようにつぶやくと、そいつが「僕が買ってあげるよ」と言って、その後欲しいレコードはいつもそいつに買ってもらった。これも、無理矢理買わせたことではないが、かなり計算されたしたたかな行為である。なぜって、僕がいじめられているそいつを慰めたのは、優しさや正義感では全くなく、その後レコードを買ってもらうことを視野に入れての慰めだったからである。しかし、このようなことも学校では問題にならなかった。
 息子が、友達と合意の上でカードを1万円で買ったというのは、僕の子供の頃に比べて、なんとまっとうな商取引なんだろうと僕は思ってしまうわけだ。小学校の2〜3年の頃には、カードが盗む者がいるということで、問題が起きたことがあった。息子も盗んだことがあったかもしれないし、盗まれたこともあったかもしれない。小学5年になり、「人の物を盗んではいけない」という共通認識が子供達のなかで育ちはじめてきているのだ。そこで、カードとカードの交換が行われたり、片方がどうしても欲しいというカードを持っている方が2千円や3千円で売り始めたり、「窃盗行為」から脱却して「商取引」へと成長してきているのだ。しかし、1万円という額が大きすぎて、今父兄の間で問題となっているのだ。1万円という額が多すぎたとして、580円ならいいのか、1300円ならばいいのか、あるいは4980円ならいいのか、お母さん達はどういう価値基準を持っているのだろうか。僕の子供時代の経験を踏まえて、妻にそんな僕の考えを話すと「今は時代が違うのよ」と言う。確かに時代は違う。子供の遊び方も変わってきている。子供の遊びが、僕らの頃に比べて無邪気に空き地で草野球をするような時代ではなくなった。コンピュータゲームもするようになり、子供の遊びにはお金がかかるようになった。その現実を踏まえて、子供達は知恵を出して子供なりの「商取引」をするようになったのだから、昔の常識で子供達の行為を非難してはいけないんだという主張ならば理解できる。しかし、お母さん達が言っているのは、むしろその反対である。反対というか、明確な価値基準がないままに、「気分や空気感」で、いけないことを決めているのではないか。かつてあった日本の風景には、商取引といったアメリカ合理主義的な資本主義の価値観ではない、助け合いやいたわりあいという精神があったはずだ。その古き日本の伝統を復活させるという価値基準にもとづいて、子供達のカードとお金の取引を禁止させようとする主張ならば、これも理解できるが、どうもそういうことでもないらしい。
 結局のところ、日本人の大人に明確な価値基準などないのだ。日本の伝統や慣習を守り抜くという気概などないのだ。心のなかの宗教もないのだ。ただただ目の前に起こる現象に関して、基準もないまま周囲の目を気にしながら何となくの気分で子供に怒ったりしてるだけのことだ。昔に比べて、時代が変わったとするならば、変わったことといえば大人に価値基準がなくなってしまったことなのだと、僕は思う。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*友野康治オフィシャルサイト「LOVE MYSELF」へもお立ち寄り下さい。
2008年4月25日号(vol.165)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-04-24 10:19 | ニッポンからの手紙
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