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vol.21/無名の人々<aloe352>

■サラダタイム
 地下鉄で私の目の前に座ったおじさんは、そわそわもじもじして落ち着かない。右手に持ったスーパーの袋ががさがさ音を立てている。地下鉄が動き出すと、ようやくその袋からプラスチックの容器に入ったサラダとミネラルウォーターを取り出した。おじさんの食事の始まりである。
vol.21/無名の人々<aloe352>_f0055491_11403172.jpg まずはボトルの蓋を開け、水を三口程飲み干して再び蓋を閉める。おじさんのムチムチした大きくて太い指は、全ての動きをかわいらしく見せてしまう。ミニチュアのお食事セットを使ってのおままごとのようだ。
 おじさんが挙動不審になっている。水のボトルをどこに置くか迷っているようだ。私なら股に挟んでおくのに、などと余計な事を思っていると、おじさんはボトルを足元に置いてまずは一件落着。
 そわそわとサラダの容器を持ち上げる。心無しか微笑んでいるように見える。よほど待ち望んでいたサラダなのか。しかしここでも又事件が。おじさんの大きな指では容器の蓋がなかなか開かないのだ。既に右手に握りしめていたプラスチックの白いフォークを太ももに置き、おじさんは蓋に集中。予想できる最悪の結末は、蓋を勢いよく剥がしたあまり中身が飛び散るという惨事だが、おじさんは不器用にもゆっくりと落ち着いて蓋をはずすことに成功。時間にして3分ほど。見ているこっちが疲れてしまった。
 蓋を袋に戻し、フォークを再び握りしめ、いよいよサラダタイム。サラダの中身は、キュウリとトマトとタマネギ。ドレッシングのお酢の香りが、おじさんの半径2メートルの範囲を漂う。一つひとつをぎゅっとフォークに刺しては愛おしそうに口に運ぶおじさん。私はこれまで、こんなにもサラダをおいしそうに食べる人間を見たことは無い。
 3分後、全てのキュウリとトマトとタマネギが容器から消えた。後は、底にドレッシングが残るのみ。おじさんはやおらフォークを袋に落とすと、容器を両手に抱えドレッシングを飲み干した。おじさんは茶道のたしなみがあるのだろうか。まるでお手前を拝見しているみたいであった。
 しかしここで、最後の最後に又もや事件発生。ドレッシングを飲み干し容器を口から離した瞬間に、ドレッシングが数滴、おじさんの胸元に落ちてしまったのである。おじさんはすぐに気づき慌てるも両手は容器で塞がっている。数秒おどおどした後、ようやく気づいたのかおじさんは容器を袋に入れた。両手を解放するにはそうするしかない。おじさんは足元の水のボトルを取り上げ蓋を開け、持っていた紙ナプキンを水で湿らせ胸元を拭く。何度も何度もこすりつけるが、残念ながらドレッシングはノンオイルではなかった。水と油は反発し合うばかりで、おじさんの応急処置はあまり意味がなかった。
 それでもおじさんは幸せそうだ。テーブルが無い地下鉄の車内だろうと、蓋を開けるのにかかった時間と食べる時間が同じであろうと、そして服がドレッシングで汚れてしまおうと、サラダがおいしかったのだからそれでいいのだ。
 空になったボトルも袋に入れ、袋の口をしっかりと閉め、食事が終わって3分後、おじさんは幸せそうに地下鉄を降りて行った。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*同コラム作者のブログ「今日見た人、会った人」にもお立ち寄りください。
2008年7月11日号(vol.170)掲載
by tocotoco_ny | 2008-07-11 11:41 | 無名の人々
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