カテゴリ:アンダードッグの徒( 68 )

vol.178/時代<黒須田 流>

「景気が悪い」「また株が下がった」「このままじゃ潰れちゃうよ」……近頃はどこに行ってもそんなグチや泣き言ばかり聞かされる。たしかに、世の中不景気である。それも半端な景気後退ではなく100年に一度あるかないか、と言われるくらいの大恐慌である。ハレー彗星や何とか流星群のような自然現象ならば少しはワクワクした気分になるけれど、今回のようなケースはたとえ歴史上希有な事態であっても遭遇したくなかった、と、感じているのは私だけではないだろう。景気なんてオレには関係ねえよ、と嘯いていられるのはまだ「社会」という土俵にすら上がっていない子供だから吐ける台詞なのだろう。かといって、深刻ぶって暗い顔をしているオヤジ連中に同情する気にもなれない。そんな時代に当たってしまった事をいくら後悔しても何も始まらない。 
 戦争などもそうだが、こうした状況になると所詮は「社会」という枠組みの中でしか生きられないことを痛感する。自分が何か悪い事をしたわけでもないのに、どうしてこんな目に遭わなければいけないんだ、と、時代や社会に対して憤りを感じ、文句や不満を並べたところで個人の意思や感情は大きな流れにのみ込まれて終いである。私のように地道に誠実に生きている者も例外ではない。人里離れた山奥やジャングルで仙人か原始人のような生活でもしない限り、周りの影響を全く受けずに暮らしてゆくことは出来ないのである。
 さて、何が悪い、誰の所為だ、と、嘆いてみたところで景気が回復するわけじゃないし、困ったからといって突然ヒーローが現れて金を貸してくれるわけでもない。ここまでくると、いっそ開き直って笑うしかないだろうという気にもなる。どのみち、日々の生活は続くわけだし、今日も明日も生きていくしかないのだから。たとえ金を失い、職も無くし、会いたい人と会えなくなろうとも、戦争のように命まで取られない分まだマシである。仮に金欠貧困で独り惨めに野垂れ死んだとしも、それだけのことである。生命を軽んじるつもりはないけれど、どうせいつかは死ぬ身だし、自分の意のままに生きられない世の中なら、せめて自分の命の軽重ぐらい自分自身で決めたい。
 こんなご時勢になるといっそ死んだ方が楽だと考える連中も出てくる。「自殺」という選択肢を選ぶのは個人の自由だろうし、止めはしないが、硫化水素のように他の人にも迷惑が及ぶ可能性がある方法は避けてもらいたいものだ。死ぬならどうか勝手にやってくれ。私には愛する妻も守るべき家族もいないお気楽な身なので、いつ死んでも構わないのだけれど、資本主義とか貨幣経済とか株式市場とか……、誰が決めたかわからないルールや制度のために自分の命を絶つなんてまっぴら御免ではある。 
 それにしても、日頃「オレは幕末の世に生まれたかった」などと熱く語っている威勢のいい連中はどこに行ってしまったのだろう。「歴史」という結果がわかっている過去なら、竜馬や高杉、松陰や西郷……といった幕末の志士に自分を置き換えて好きなことが言える。幕府と景気という違いこそあれ、捉え方によっては今は混沌とした動乱の時代とも言える。しかも、幕末に比べたら圧倒的に命のやり取りがない分、思った通りに出来るではないか。結局は酔った酒の席での与太話で終わりかよ。また、普段「愛はお金では買えない」とか「家族の幸せは何物に代えが難い」とか、さんざんキレイゴトを並べている連中はどうしたのだろう。こんな時こそ大好きな「永久の愛」や「家族の絆」とやらが役に立つのではないのか。得意のお題目は景気云々に左右される程、脆弱なモノなのか、と首を傾げたくなる。不況如きで不仲になる夫婦の話を聞かされると、自分がモテずに独り身でいて本当に良かったと思う。明日も笑って生きてやる。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年12月26日号(vol.180)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-12-26 21:55 | アンダードッグの徒

vol.177/ガラクタの宝物<黒須田 流>

「Kさん(私のこと)聞いてくださいよぉ〜。この前マッサージに行ったらトンデモナイの出てきて、もう最悪っスよぉ」知り合いの若者が泣きそうな顔をしながら、グチをこぼしに来た。それを聞いた私は「よかったじゃないか」と応えた。おそらく同情や慰めの言葉を期待していたのだろうが、私の反応が全く違っていたので彼はキョトンとしていた。「だいたい、オマエさぁ、高々200ドルぐらいで仲間由紀恵ちゃんとかアンジェリーナ・ジョリーみたいな女性と気持ちいいことしょうって考える方が図々しいってモンだろう」と、私が続けると、若者は「そりゃ、オレだって、そんなレベルまで望んではないですけど、やっぱ、ある程度は期待するじゃないですか」と、やや口を尖らせながら反論した。私も男なので心情的には若者の気持ちがわからなくもない。がんばって稼いだカネを握りしめて、ワクワクしながらマッサージ小屋に行き、朝青龍みたいな女が現れたら泣きたくなるだろう。

 女性にはなかなか理解出来ないだろうが、男というのは本当に愚かな生き物である。極一部、稀に賢い男性も存在するようだが(私の周りにはいない)、ほとんどはどうしょうもないバカばかりである。どれくらいバカかと言うと、「もしかしたら今日こそは200ドル程度の金でモデルや女優クラスの女性と気持ちいいことが出来るかもしれない」ということが幻想・妄想であることを何百回あるいは何十年くり返しても学習できない程の知能レベルなのである(ねっ、相当バカでしょ)。

 彼はビジュアル的に期待値からかけ離れた女性が登場し、自分は不幸だ、ツイてなかったと悔やんでいる。それは「若さ」に起因しているのかもしれないけれど、私はそういう苦い経験もまんざら捨てたモンじゃないと思っている。まず、ナンパをしたり、友達になったり、彼女にしたり、結婚したり……と、自らの意思が働いて女性にアプローチをする場合、そこには少なからず自分の好みやタイプが含まれる。半ば強制的なシチュエーションでない限り、タイプ以外の女性と親密になる機会は滅多にないし、日常の生活において「強制的なシチュエーション」というのがそうあるわけではない。「苦行」や「悟り」とまでは言わないが、不合理に何かを感じること、不条理の中でしか得られないものもあるのである(ホントかな)。

 近頃、私は歳をとった所為かあるいは死期が近づいているのか、昔のことをよく思い出す。それも、楽しかった事より、どちらかと言えば失敗や恥ずかしかった出来事の方が多い。まあ、これまでの人生の大半が反省と後悔と挫折の連続であるから過去の思い出も必然的にそうしたものが多くなるのだろうけれど……。ただ、当時は辛く感じていた事も今では笑い話で済ませられるし、他人からすればどうでもいいガラクタのような出来事が妙に懐かしく思えたりする。

 多くの人は出来ることなら、挫折や失敗、傷みや哀しみを味わずに生きてゆきたいと、願っているだろう。幸せになりたいと思うのは人として当然なのかもしれない。ましてや、自分の好きなひとや大切なひとには、いつも笑顔でいてもらいたいし、悲しい思いはしてほしくない。

 けれども、生まれてから一度もお金に不自由した事がない、いい人ばかりに囲まれ、誰からも愛され、嫌な思いはしたことがない、綺麗な女性としかセックスしたことがない、……そんな人生がはたして幸せなのだろうか?過去を振り返った時、挫折も失敗もなく、効率よく生きたことに本人は満足するのだろうか?と思ったりもする。

 私が言った「よかったじゃないか」という意味がいつかわかってもらえる日が来るといいのだけれど……。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
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2008年11月28日号(vol.179)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-11-25 00:03 | アンダードッグの徒

vol.176/I live for this.<黒須田 流>

 元WBC世界バンタム級王者の辰吉丈一郎が10月26日タイ・バンコクで復帰戦を行なった。なぜ、日本ではなくタイなのか?というと、日本ボクシング協会(JBC)の規則では健康上の理由等から37歳になると自動的にライセンスが失効する(一部の特例はあるらしいが)。つまり、現在38歳の辰吉選手はプロボクサーとしてリングに上がり、試合をすることが日本国内では許されないのである。
 さて、試合は辰吉選手が2RTKO勝ちを収めたのだが、試合後、JBCは今回の復帰戦に関与したタイ側のジムの会長に事情聴取を行い、今後タイ国内ではJBCライセンス保持者以外の試合禁止を要望したというのだ。しかも要望とは名ばかりで、もしJBC側の意向に応じない場合には同ジム所属選手の日本での試合出場を認めないなどの制裁措置も含まれているので、ほとんど脅しにちかい。これによって、辰吉選手の現役続行の道が断たれる可能性がますます高くなった。辰吉選手はボクサーとしては致命的とも言える網膜剥離を克服して世界王座に返り咲いた男である。しかし、王座から陥落して既に10年が経ち、年齢的にも肉体的にもピークが過ぎていることは本人が一番よくわかっているはずだ。それでも、彼は現役にこだわり続ける。世界の頂点に立ち、地位も名誉も手に入れた男がボロボロになってまで闘おうとする。ヘタすれば死ぬことも有り得るのに彼をそこまでリングへと駆り立てるのは何なのか、私のような者には到底理解できない。現役か引退か周りがどうこう言う筋合いではないだろうし、自分の人生を自分で決められないのもおかしな話である。ただ、本人が命を削る覚悟でやりたいのなら納得するまでトコトンやらせてあげたい。そして、一ファンとして最後まで彼の闘う姿を、生き様を見届けたいと思う。
 それは無責任だという意見もあるだろうが、では、人道的なもっともらしい意見を述べたり、生きてさえいれば良しとする考え方がはたして責任あると言えるのだろうか。
 誰にでも「I live for this(このために生きている)」という瞬間、あるいは「これをしている時に『生』を感じる」というものがあるのだろう。それは、労働の後のビールであったり、子供の笑顔であったり、家族団らんのひと時であったり、大切な人と過している時間だったり、美味しいものを食べている時であったり、面白いマンガを読んでいる時だったり、アダルトビデオを観ながらオナニーしている瞬間だったり、ゴルフをしている時だったり、舞台に立っている時だったり、仕事や研究に打ち込んでいる時だったり……その「時」や「瞬間」は人によって様々なのだろう。辰吉選手にとってはたまたまそれがリングに上がり、試合をすることなのかもしれない。
 戦争を放棄し、経済的にも恵めれ、世界一の長寿となった日本人はあらゆる面で過保護になり過ぎているような気がする。長生きを否定するつもりはないけれど、人命が何よりも尊いという価値観が万人に通用するとは限らない。誰もが「死ぬ時はポックリ逝きたい」みたいなことを言う。それは寝たきりになったり、誰かに迷惑をかけてまで生きていたくはない、という意味なのだろう。
 幸福の基準はそれぞれである。日本国憲法でも幸福追求権(第13条)は認められている。もちろん幸せのためなら好き勝手やっても良いというわけではないが、世の中には健康で安全に平和に暮らすことに幸せを感じられない人だっているのだ。だからとて命を軽んじ、死を奨励するつもりもない。むしろせっかくの命を自ら絶つなんて勿体ないと思う。たとえ周りからすれば取るにたらないような事でも、自分が楽しい、面白いと感じるものが何か一つでもあるなら私は命の続く限り、惨めに這いつくばってでも生きてやる。
(原文まま)
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2008年11月14日号(vol.178)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-11-13 06:34 | アンダードッグの徒

vol.175/8年<黒須田 流>

 tocotoco を創刊したのは2000年の11月だから今号でちょうど8年が経ったことになる。地球的規模からすれば8年という年月は屁のようなものだろうが、人の寿命から考えると軽んじられる時間の長さではないだろう。まあ、私の場合人生そのものに重みがあるわけではないのが……。それに、8年間tocotocoを出して来たと言っても、べつに私が何をしたというわけではない。私の役割といえば、このコラム用の拙文を寄稿することと発行に必要な経費を用意することぐらいである。それでも一応カネを集める、という責務がある。多少なりとも実社会での経験がある方ならtocotocoが儲かっているか否かすぐに判断がつくだろう。残念ながら後者である。しかし、社会とは厳しく残酷なもので儲かっていようがいなかろうがお構いなしに請求書は送られてくる。なので仕方なく、私はせっせと山へ芝を刈りに行ったり、河へ牌を捨てたりしているわけである。他にも方法はあるのだろうが、それが私にとっては一番手っ取り早いカネの稼ぎ方なのである。はたからすれば毎日ぐだぐだ遊んでいるように見えるのだろうが、これはこれで結構たいへんなのである。
 さて、tocotocoを始めてから8年の間に随分といろんなことがあった。ワールドカップとオリンッピックはぞれぞれ2回ずつあった。WBCが行なわれ、王監督率いる日本代表は初代チャンピオンになった。「911」も起った。戦争は今も続いている。米大統領もニューヨーク市長も変わった。日本の首相などあまりに変わり過ぎて覚えていられないほどである。地球はどんどん温暖化になっているらしい。コンピュータ、ケータイ、インターネットなどの普及率は高くなるばかりである。
 で、じゃあ世の中よくなっているのか?と問うてみると、私の個人的な見解を言わせてもらえば「NO」なのである。いや、良くなるどころこかむしろ悪く危険な方向に進んでいるように感じる。日本など「平和ボケ」なぞとノン気なことも言ってられず、その内どこぞの国に飲み込まれてしまうのではないかとさえ思える。
 かといって、世直しをしたいとか世の為人の為に何かしようという気はさらさらない。自分が生きてゆくことに精一杯で他人のことまでかまっている余裕などない。
 日本が、世界が、地球が、人類がどうなろうと私の知ったこっちゃない。その代わり、仮に全部滅んでしまったとしても、それはそれで仕方がないという覚悟ぐらいは持ち合わせている。そういう無責任な考え方はよくないと責められても、責任の取り方がよくわからない。いったい一市民に何が出来るというのだろう。痛みも傷つきもしない安全な場所から、ああでもない、こうでもない、と能書き並べることが責任ある生き方なのだろうか。自分に出来る小さなことをして自分は地域や社会へ貢献していると自己満足的に善人ぶっていれば許されるのだろうか。そうだこんな大国主導の権力者ご都合主義の世の中なんてぶっ壊してしまえばいいんだ、と罪のない人々を巻き込んだテロ行為のその先に輝かしい未来が訪れるとは到底思えない。何かをしても、何もしなくても、何も変わらない。抗ったところで所詮大流には逆らえない。ならば、自分自身を頼りに好き勝手に生きてゆくしかないだろう。たとえ流れ着く先が破滅という自分の意にそぐわない場所であっても……。それに、あの人と一緒なら滅んでも本望である。でも、きっとあの人は私とでは本意ではないだろう。嗚呼無情はアンルイス。
 そんなこんなで8年が過ぎました。読者をはじめ、ご支援をいただいた方々、本当にありがとうございます。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
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2008年10月31日号(vol.177)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-10-31 09:47 | アンダードッグの徒

vol.174/棚<黒須田 流>

 海には「棚」と呼ばれるものがある。棚によって生息する魚の種類は異なる。つまり、棚とは魚の遊泳層のことで深海魚とトビウオが交わるようなことはまず有り得ない。陸地でも熱帯あるいは極寒など特定のエリアにしか生息しない生き物やカンガルーのように生態系的に一部の地域でしか生存しない種もいる。動物園など人為的なことでも起らない限り、像とペンギンが出会うことは自然界ではない。
 さて、ひと言に「人間」と言っても「人種」という言葉があるように、いろいろな種類・タイプに分類される。
 辞書によれば、人種――人類を骨格・皮膚・毛髪など形質的特徴によって分けた区分。一般的には皮膚の色により、コーカソイド(白色人種)、モンゴロイド(黄色人種)、ニグロイド(黒色人種)に大別されるが、この三大別に入らない集団も多く存在する。また、人をその社会的地位、生活習慣、職業や気質などによって分類していう言い方――と、ある。さらに加えれば、国籍、趣味・嗜好、価値観、生活環境などの違いによって、同じ人間でありながら、差異、差別が生じる。つまり、人間は一見ほとんど似たような姿形をしているけれど、実は人によってまるで違う生き物ではないのか、と思ったりもする。もちろんある程度は類型・同系統に分類することはできるけれど、人間ほど多種多様に富んだ生き物はいないだろう。
 日本では昭和以前ぐらいまでは身分や家柄といったものに対する意識が強かったが、今日の人間社会では、きっちりとした棲み分けがなされていないため、本来出会うことがないはず者同士が知り合ったり、関わったりする。それが面白くもあり、また時には悲劇を生んだりもする。
 ニューヨーク・マンハッタン。世界中の国の人々が集まり、ミリオネイラーからホームレスまでありとあらゆる身分、階級が混在し、一つの社会を形成している。この街ほどいかに人間が多種多様であるかを肌で感じられる場所は他にないだろう。小便を垂れ流しながら寝ているホームレスの横をスパーストレッチリムジンが走り去り、全身にタトゥーを入れ鼻ピアスをした女性とウォールストリートジャーナルを読んでいるビジネスマン風の男が落書きだらけの地下鉄のシートに隣同士並んで座っている。
 友人を頼って初めてニューヨークを訪れた時、私はこの街のそんな混沌とした猥雑さや危うさに魅了された。あれから20年ちかくの月日が経ち、街並も雰囲気も随分と様変わりした。そう感じるのは私自身が変わったのかもしれないが、いずれにせよ近頃この街にあまり魅力を感じなくなった。かといって、どこか行きたい場所や棲みたい地があるわけでもない。魚は水質が変われば死んでしまう。植物は地質が合わなければ上手く育たない。けれど、人間はどんな場所でも周りの環境に適応し生きてゆく能力を持ち合わせている。
 棲めば都——なるほど、先人達は上手い事を言ったものである。慣れと本人の気持ち次第で暮らしている場所や環境は肯定的に受け入れるのだろう。自分の人生を振り返ってみれば、私はこれまで神奈川で生まれ育ち、高校を卒業してからは東京で暮らし、その後はニューヨークと、たった三都市でしか生活したことがない。残された時間を考えるとそう彼方此方で暮らすことは出来ないだろう。このままこの街に居続けるか、地元に帰るのか、あるいはまったく違った場所になるのか、今はまだわからいないが、どこに棲んだところでグータラでいい加減な私の生活と性格は変わらないのだろう。
(原文まま)
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2008年10月17日号(vol.176)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-10-18 07:31 | アンダードッグの徒

vol.173/覚悟<黒須田 流>

 前回のコラムで、米LPGA(米女子プロゴルフ協会)の英会話能力試験制度導入はスポーツに対する冒涜であり、蛮行・愚行以外の何物でもない。日本の協会やマスコミが反対しない理由がわからない……と、いった内容を書いた。だからというわけではないだろう(いや、120%ないだろう)が、米LPGAは、先日その制度導入を撤回し、白紙に戻した。当たり前と言えば、あまりに当たり前だし、そもそもそんな制度を導入しようと考える事自体イカレてるとしか思えない。米LPGAコミッショナーのキャロリン・ビーベンス氏は「選手達には、コースと同様、メディアやファン、スポンサーとの関係でも成功してもらいという英語の必要性から新制度導入を考えたが、今後は目的を果たす別の方法を模索する」と、よくわからない撤回理由を述べた。
 知り合いのゴルフジャーナリストによると、このビーベンス氏、就任(2005年)以来かなりのワンマンぶりを発揮しているみたいで、以前にも——取材記事や撮影した写真は48時間以内に掲載しなけばならない。それ以降の使用に関してはLPGAの認可と使用料が必要とする——と、いった規約を何の通達もなく、取材申請書の裏側に小さな文字で明記しただけで施行した。当然、各メディアは激怒。アメリカをはじめ、世界の主要メディアが一斉に取材をボイコットするなどの猛反発にあい、施策はすぐに取り消されたという経緯の持ち主らしい。今回の件にしても事前に調査や準備を周到にしていたわけではなく、発表してみたけれど、周囲から批判・反対意見が殺到したので、やっぱヤーメタ!っと、同氏の思いつき的な発想である感は否めない。さらに言えば、ビーベンス氏のコミッショナー就任以降、かつての米LPGAスタッフが退職し、残っているのはイエスマンばかりである。コミッショナーの暴走を止められない協会内部の脆弱さが改めて露呈した、との事。
 どのような選考基準や方法でコミッショナーが選出されるのかはわからないが、米国のメジャースポーツ、特にプロの競技のコミッショナーは白人である。ビーベンス氏も白人の女性である。白人だから横暴だとか白人だから差別するというわけではないが、世界が白人中心で回っていることは純然たる事実である。
 さて、今年は米国大統領選の年で11月にはブッシュに代わって新しい大統領が誕生する。その有力候補者の一人がバラック・オバマ氏である。もし彼が当選すればアメリカ史上初の黒人大統領となり、社会における影響力は計り知れない。オバマ氏は黒人の父親と白人の母親との間に生まれた「混血」と分類されたりもするのだが、彼に黒人の血が混ざっていなければこれ程、注目されることも話題に上ることもなかったかもしれない。
 メディアなどでは知名度や支持率を白人・黒人・ヒスパニック系・アジア系……に公然と分類し、我々もそれを当然の如く受けとめている。これらは差別ではなく、外見や肌の色によって区別・分類しているだけだ、という捉え方もできるが、なぜ区別する必要があるのかという疑問も残る。区別が差別を生むという考え方だって出来る。
 綺麗事ではなく、社会から差別をなくし、人々から差別意識を取り除くことは不可能だと私は思う。ただ、差別はよくないと考える人が多くいる社会を望むし、差別意識を改める思考や視野は教育によって培われると考える。
 しかし、現実は差別・偏見に満ちた世の中であり、黒人大統領などとんでもないと息巻く時代錯誤の輩が多数存在している。オバマ氏を暗殺すれば自分が英雄になれると夢見ているイカレタ連中だっているかもしれない。オバマ氏の警備にあたる人数は要人では過去最高だという。命を狙われる危険はオバマ氏自身が一番わかっていることだろう。それでも大統領候補に名乗りをあげたオバマ氏の覚悟は賞賛に値する。
(原文まま)
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2008年9月26日号(vol.175)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-09-26 06:19 | アンダードッグの徒

vol.172/おおらか<黒須田 流>

 LPGA(米女子プロゴルフ協会)が英会話の能力試験制度の導入を決めた。ツアーに2年間在籍し、英語力が低いと判断された場合にはテストが実施され、基準に達しなければ出場停止になる。LPGA側は「コースだけでなく、ファンやメディア、スポンサーとの関係でも成功してもらいたい」と、制度導入の理由を説明しているが、この理屈はあまりにも苦しい。ゴルフに興味のない方はご存知ないかもしれないが、近年、女子プロゴルフ界はアジア勢の活躍が目覚ましい。特に韓国選手の実力は高く、メジャータイトルを次々に獲得し、どの大会でも上位クラスは「キムさん」「パクさん」といった名前で占められている。協会としてはもっともらしい?導入理由を付けたつもりなのだろうが、「いくら実力があっても外見的に見栄えのしないアジア人ばかりに勝たれては人気に陰りが生じてくるだろうし、下手すればスポンサーだって離れてしまう。なにか手を打たなければ」といった危機感が背景にあることは容易に察しがつく。でなければ、なぜ今頃になって急に英会話の能力試験なんだ?だいたい「スポーツ」の魅力や美徳は、勉強や学歴、人種や国籍に関係なく、単純にその競技での身体能力を競うところになるのではないのか?分数計算は出来ないが、誰よりも速く走れる。喋るのは苦手でも、泳ぎは得意だ。家は貧乏だけれど、メチャクチャ強い……と、いったように、身体がすべてを凌駕するという世に存在する数少ない「平等」に差別を持ち込んだ愚行だと私は考える。
 今回のLPGAの判断は、どんなに綺麗事を並べようと世界の中心は「白人と英語」ということを何の捻りもなく露骨に示されたようで、酷く不細工に思える。そして、もう一つ解せないのは、どうして日本のマスコミや協会はこうした悪しき制度に対して異を唱えないのだろうか、ということである。
 「ようござんす。そっちがそうくるなら、賞金は高く、楽に稼げる日本ツアーに参加したければ、古文や漢字のテストを受けてもらいますよ」ぐらいの意地は見せてもらいたいものだが(まあ、日本サイドとしては有名外国人選手にはアゴアシ付きでも出場していただきたいくらいの弱い立場だからそれも無理な話か……)。
 さて、建前だらけのしょっぱい日本社会ならいざ知らず、これまで偉そうに自由や平等を掲げてきたアメリカでさえ、この様である。制度や規制・禁止ばかりで、世の中から、おおらかさがどんどん失われていくように感じるのは私だけなのだろうか。
 コンピュータやインターネットをはじめ、テクノロジーは目覚ましく進歩している。男女も人種も貧乏人も田舎者も表面上は皆平等とされている。子供の教育上よくないという理由で様々な事柄を排除してきた。健康志向でタバコが吸える場所も制限されるようになった。エコロジーブームで地球にやさしい生活意識は高まっている。
 豊かで、クリーンで、人類は明るい未来に向かっているはずなのに、疎外感や閉塞感を覚えるのは私自身に問題があるのからなのか。「水清ければ魚棲まず」ではないが、あまりにきちんとし過ぎた社会は生き難いのではないか、と考えるのは私がいい加減な人間だからなのかもしれないし、「オマエは魚じゃないだろう」と言われれば、それまでである。
 私が子供だった40年程前、日本ではまだ差別用語が平然と使われていたし、教師の体罰も当たり前のように行なわれていた。旦那集が妾を囲う事も黙認されていたし、女性の多くは虐げられていた。それでも、人も世の中も今よりは大らかだったような気がする。
(原文まま)
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2008年9月12日号(vol.174)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-09-09 10:23 | アンダードッグの徒

vol.171/誰の為何の為<黒須田 流>

 平和とスポーツの祭典オリンピック——。まさか今時こんなスローガンを真に受けている人はいないだろうが、とにかく今年はオリンピックイヤーで中国は北京で五輪が開催された。
 29回目となる今大会は世界の204の国と地域、約11000人の選手が参加し、28競技302種目で競われた。日本からは330余人の選手が参加した。これは海外で行われた大会では最高の参加人数だという。
 オリンピックの捉え方、位置付けは各国によってそれぞれ異なる。金メダルを獲得すれば国家的英雄として本人はもちろんのこと、その家族さえも一生保証されるところもあれば、ただ単に個人の名誉だけとしている国もある。また日本の場合、選手が属している企業や団体によって報奨金や待遇に差が生じる。
 さて、オリンピック開催期間中、家のテレビが故障してしまい、ほとんどの競技の結果をインターネットでチェックするぐらいしか出来なかった(まあ、どうせアメリカのテレビ放送はアメリカ人がメダルを取れそうな種目しか放映しないけれど……)。
 初めてインターネットを通してオリンピックと接したのだが、今までとはちっと違う楽しみ方が出来たし、考えさせられることも多々あった。
 まず、一体誰の為に何の為にオリンピックは開催されるのだろう、という素朴な疑問である。金メダルを目指し、苦しく厳しいトレーニングに耐え、多くのものを犠牲にして参加する選手達はとても自分自身の為だけとは言い難い。国民やマスコミ、あるいは選手自身でさえ「日の丸を背負って……」などと言う。競技や実績によって補助金の額も違うし、トレーニングや遠征費まですべて個人負担で賄わなかればならないケースだってあるのに出場するからには「国の代表」「日本代表」ということになる。つまり、オリンピックは個人として参加する国際大会ではなく、国家の威信にかけた国別対抗のメダル争奪戦と言えなくもない。
 インターネットには選手や競技結果に対して様々なコメントが寄せられる。その数は何百、何千にも及ぶ。応援や激励、感謝や労いといった好意的な内容が大半を占めるのだが、批評批判もないわけではない。中には匿名をいいことに心ない誹謗中傷のコメントを送る幼稚で下劣な輩もいる。そして、それに対して諌めたり、同調したりと、正に珠玉混合ではあるのだけれど、読んでいて、なんだかんだ言って結構みんな日本が好きなんだな、と感じた。
 日本人は愛国心が希薄だとか誇りが失われている、などと言われたりするが、決してそんなことはないように思える。私はアメリカに住んでいるけれど、日本人選手を応援するし、日本人選手がメダルを獲得できれば嬉しい。
 しかし、ある日突然、今まで隠していたけど、実はオマエは韓国人(あるいは中国人)なんだよ、と告げられたら私はどうするのだろう?(容姿からしてフランス人やコンゴ人であることはないだろうが……)。いきなり出生の秘密を打ち明けられてもすぐに、はいそうですか!と韓国(あるいは中国)を応援することは出来ないだろう。私にとって祖国や愛国心とは何なのだろう、と考えてしまった。
 それにしてもインターネットの書き込みとマスコミとの温度差は何なのだろう。3連敗に終わった日本男子サッカーなどボロカスに書かれていたけれど、新聞では「欧州王者をあと一歩まで追い詰めた」とか「世界クラスとの実力差が確実に縮まったのを誰もが確信した」とか報道されていた。どちらを信じるかは個人の判断だろうが、大きければ信憑性が高いという幻想は既に崩壊している。
(原文まま)
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2008年8月29日号(vol.173)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-08-28 06:10 | アンダードッグの徒

vol.170/笑いの戦士<黒須田 流>

 深夜3時。三人の若者が何やら真剣な面持ちで話しをしている。耳をそばだてれば、「××チャンは可愛い」とか「オレはこういうのがタイプだ」とか「AV」、つまり、アダルトビデオについて話し合っていた。
 これが地球環境問題や大統領選と日米関係といった小難しい話題だったら素通りしていたところだが、比較的得意なな分野だったので会話に参加させてもらった。アダルトビデオに関しては「マニア」、には及ばないにせよ、それなりに本数をこなしていると自負している。
 三人の内の一人が日本でアダルト業界の仕事をしていたらしく(残念ながら男優ではなかった)、裏事情や画面には映らない興味深い話が聞けて面白かった。彼等の年齢は20台前半で私とは親子ほどの年の差がある。しかし、男のシモネタ・エロ話に年の差は関係ない。私はバカ笑いし過ぎて腹筋が痛くなった。
 私が低能で人間的にもあまり成長していないことに反論の余地はないのだが、若い連中とバカ話をしていて、ひとは、いや、男は年を重ねる毎に笑わなく(笑えなく?)なるような気がした。
 大人ぶったり、大物ぶったり、深刻ぶったり……いったい誰のために振る舞い、何のために生きているのだろう、と考えてしまう。家族や会社のためと言えば聞こえはいいが、一国の首相や大統領が急に消失しても代わりはいくらでもいる。己の存在価値を見出したいという気持ちもわからなくはないけれど、明日誰が死んでも世界は何も変わらないのある。
 先日、日本のマンガ界の巨匠、赤塚不二夫先生が亡くなられた。「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」「もーれつア太郎」など、日本人なら誰もが知っている作品を生み出し、ニュロメ、ケムンパス、レレレのおじさん、ココロのボス、イヤミ……といったユニークなキャラクターを数多く誕生させた。
 私が幼少だった昭和40年代から50年代は赤塚先生の全盛時代でもある。このため、私達の世代は赤塚作品の影響をモロに受けた世代と言える。「シェー」「これでいいのだ」「レレレのレ〜」……子供達の誰もがキャラの真似して遊んでいた。もしも赤塚マンガがなかったら、今とは違う人格になっていたと言っても過言ではないだろうし、極言すれば、日本そのものが変わっていたかもしれない。
 今でこそマンガやアニメーションは日本を代表する文化の一つとして認められるようになったけれど、昔は良識ある大人やPTAから子供の教育上よくない、という理由でマンガは批判の的として度々取り上げられていた。
 手塚治虫先生をはじめ、藤子不二雄、石ノ森章太郎、つのだじろう、ちばてつや、梶原一騎……といったマンガ界の先駆者達がそうした外圧に屈することなく、作品を描き続けた情熱や精神が今日の日本文化へと受け継がれている。そしてその先駆者達の一人が赤塚不二夫だった。
 ナンセンスな笑いが赤塚マンガの真骨頂であるが、売れるまでは貧乏と、売れてからは社会秩序と、彼自身の人生は作品とは裏腹に厳しい闘いの連続だったのではないだろうか。
 警察官がピストルを乱射するとは何事か。ヤクザを容認するようなマンガは、けしからん。子供だけで八百屋を経営してもいいのか。コンパクトを持ち歩くのは年齢的に早過ぎる……バカな大人達のクレームを「これでいいのだ」と笑って受け流した天才は天に召された。
 ご冥福を祈ります。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*お知らせ* 同コラムのバックナンバーは「アンダードッグの徒」のオフィシャルサイトの書庫に第1回目から保管してあります。お時間のある方は、そちらへもお立ち寄りください。
2008年8月15日号(vol.172)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-08-12 02:11 | アンダードッグの徒

vol.169/ラスト・サンクチュアリ<黒須田 流>

 珍しくOさんからメールが届いたと思ったら、「知人のY氏がニューヨークに行くので案内よろしく」という頼み事だった。これが若くてかわいいコだったら二つ返事で引き受けるのだが、Y氏が60ちかいオヤジときいて些か気分が重くなった。いくらY氏が国内外で数々の広告賞を取っている有名なコピーライターだとしても、私には何の関係もない。私がオヤジ達と行動を共にして楽しいと感じるのは互いの懐にある金銭をやり取りする時ぐらいで、それ以外なら寝ている方がまだましである。しかし、Oさんには昔からさんざん世話になった恩義があるので、無下に断るわけにもいかず、一週間程Y氏のお供をすることになった。
 Y氏のニューヨークでの希望はただ一つだけ、今シーズンで最後となるヤンキースタジアムでボストンとの試合を観戦することだった。Y氏と好みが一緒で助かった。これがメッツ対ブレーブスの試合に行きたい、とでも言われたら、どうぞご自由に、となっていただろう。
 カネがない、時間がない、松井選手がケガで出ない……と、いった諸事情が重なり、この頃はもっぱらテレビ観戦だったのだが、そんな理由で久しぶりにヤンキースタジアムに足を運んだ。
 ファンと敵の選手としての会話が存在する唯一の場所——マリナーズのイチロー選手はヤンキースタジアムについてこう語っている。野球やバッティングの高みを追い続ける求道師のようなイチロー選手にそう言われたらファン冥利に尽きるというものである。では、ヤンキースタジアムと他の球場との違いは何なのだろう。
 ワールドシリーズ最多優勝(26回)、数多のスタープレーヤーを輩出した輝かしい歴史と伝統、この地で数々のドラマや伝説が生まれ、選手やファンに、いや、ニューヨーカーにとって特別な場所であることに違いないが、そうした記録や数値として表れるものでなく、ここに不文律があるからだと私は考える。
 ヤンキースタジアムでの野球観戦は、観客と演奏者や役者が一体となって、独特の空間や雰囲気をつくりあげるクラシックコンサートやオペラあるいは歌舞伎鑑賞に似ている。観客はいくらカネを払っているからとて、勝手な振る舞いは許されない。笛や太鼓と鳴り物を使わず、応援は拍手と声援だけと無骨なくらいシンプルである。もしも、不文律を犯すような不届き者がいたなら周りから、「Go to Shea!」と罵声を浴びせられる(そういう余計な事をしたいならシェアスタジアム(メッツのホーム球場)に行けという侮蔑的な意味)。
 だから、ヤンキースタジアムで「イチローさ~ん♡」などとバカな日本人観光客が声援を送ることも本来は御法度なのである。イチロー選手クラスともなれば、その辺の機微を察し、むしろ、ブーイングされることを楽しんでいる節がある(敵地でのブーイングが大きくなればなるほど、その選手の実力を認めている証だからだ)。
 ところが、近頃それが少し変わりつつある。理由の一つはチケット料の高騰である。ヤンキースの試合は人気が高く仕事や営業にも使われる。プレーオフやワールドシリーズともなれば更に顕著で、一般にチケットを入手するのはほぼ不可能である。今風に言えば、空気の読めない田舎者や野球をよくわかっていないミーハー連中が我が物顔でシートにふんぞり返っている。そんな客が増えれば、球場内の雰囲気が違ってくるのも当然だろう。
 今シーズン限りで現ヤンキースタジアムは取り壊され、来シーズンからは隣りに建設中の新スタジアムがヤンキースのホームグランドとなる。けれど、完成したからといってすぐに新しいスタジアムがこれまでと同様に野球を愛する人々にとっての聖地になるとは限らない。「仏造って魂入れず」にならぬことを祈る。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
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2008年7月25日号(vol.171)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-07-25 03:54 | アンダードッグの徒