カテゴリ:ニッポンからの手紙( 22 )

vol.167/今日までそして明日から<友野コージ>

 このタイトルは、僕の大好きな吉田拓郎の歌のタイトルから取ったものである。1975年に若かりし拓郎が、かぐや姫とともに静岡県のつま恋というところで伝説のオールナイトライブを行った。そして、それから31年後の2006年、同じつま恋で60歳を超えた拓郎が再びつま恋のステージに立ち、最後に歌った曲がこの「今日までそして明日から」という曲であった。
 今年の春、「結婚しようよ」という映画が公開された。その映画は、三宅裕司が扮する平凡なサラリーマンが、駅前で若者が拓郎を演奏している音が耳に入り足を止め、一緒になって叫ぶように拓郎の曲を歌うというオープニングからはじまる。家族を持ち、平々凡々と暮らしながらも、まだ心のなかに夢や希望といったものはなくしていないといったメッセージが込められた作品である。そして、そのエンディングでも「今日までそして明日から」が流れた。
 アニメの傑作である「クレヨンしんちゃん」のなかでも、「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ大人帝国の逆襲」という最高傑作の映画がある。大人達が子育てや仕事を放棄して、大阪万博の頃、つまり70年代に帰りたいというノスタルジーを抱き、自分たちが子供の頃の遊びに熱中してしまうという作品である。しかし、しんちゃんの父親であるひろしはクライマックスシーンで70年代への回帰願望を振り払い、「俺は今を生きているんだ。過去に何か戻りたくねえ」と宣言する。何度見ても涙が出る傑作であるが、その映画のラストシーンで流れるのが「今日までそして明日から」である。

 現在日本では、空前の不況を迎えつつあると言われ、契約社員はどんどんと契約を打ち切られ、来年の入社が内定していた新卒者の内定が取り消されている。株価は低迷し、大手企業は前年度の利益を大幅に下回り、中小零細企業の倒産が相次いでいる。国民の政治に対する要望は「景気対策」が圧倒的一番で、しかし麻生内閣は素早い対応が出来ずに右往左往している。
 僕は思う。慌てるほどのことではない、と。今が異常事態だと思っているからいけない。今が普通だと思えば良いのだ、と。GDPにせよ、企業の利益の数字にしろ、すべて前年度比とか前期比という比較のしかたをするから、大幅マイナスだと大騒ぎになる。国民も数年前と比較して生活が苦しいと実感して、社会への不満を募らせる。ところが国家全体にせよ、国民ひとりひとりにせよ、30年前や40年前に比べれば生活水準は明らかに豊かになっていることは、アルツハイマーの人にだって一目瞭然のことである。携帯電話はおろか、テレビでさえ珍しかった時代である。コンビニだってない。水を買うということもない。学生のアパートには風呂どころかトイレもなく、共同で使っていたりしていたのだ。
 そう考えれば、現在の日本の状況など、屁の突っ張りにもならないくらい、大したものではないのだ。マスコミは国民へのインタビューや世論調査を金科玉条にして政治批判を繰り返しているが、政治批判の延長に「アナキズム」を主張するなら納得もできるが、結局景気対策をもっと迅速に、そして効果的にやれと、つまるところ行政頼みである。
 なにも騒ぐことはない。意気揚々と、ここからまた歩き出せばいいのだ。悠然として明日から生きていけばいいのだ。それが、飢えもない日本という恵まれた国に生まれた国民の礼節ではないか。

 本号をもってtocotocoは廃刊とお聞きしました。8年という間、随分好きなことを書かせていただきました。他の雑誌などで原稿を書くときには、出版社から具体的な内容の要望があったりするので、なかなか書きたいことをそのまま書かせてくれる場というものがありません。そんななか、 tocotocoではエロネタをはじめ、特定の人物への誹謗中傷や女性蔑視も含め、書きたいことを書かせていただいきました。この間僕がどんなことに興味を抱き、どんな考え方をしていたのか、それを振り返って自己確認ができる貴重な場でありました。この場を借りまして、読者の方と関係者の方にお礼を申し上げます。拙文甚だしいものを、8年間も読んでいただいたり掲載していただきまして、ありがとうございました。
 tocotocoが廃刊になってしまうのは寂しいですが、またここから歩き出せばいいのだと思います。どこかで再会することを楽しみに……。
 そして今私は思っています
 明日からもこうして生きていくのだろうと
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*友野康治オフィシャルサイト「LOVE MYSELF」へもお立ち寄り下さい。
2008年12月26日号(vol.180)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-12-26 21:54 | ニッポンからの手紙

vol.166/今こそ綺麗事を唱えよう!<友野コージ>

 来月「特命係長 只野仁」という作品が映画化されるのだが、この作品はもともとマンガ原作で、その後テレビドラマ化されサードシーズンまでオンエアされている人気作品である。このテレビドラマをノベライズするから執筆をして欲しいという依頼があり、10月から11月にかけてその執筆に僕は追われていた。かかりはじめた頃は、自分の原作でもないしドラマ化されたものを小説化するという作業に、やや志の低さを感じたりもしていたのだが、書いていくうちにとても楽しくなってきたのだ。なぜかと言えば、このドラマが素晴らしく面白いからだ。面白い上に、僕のハートにぴったりとマッチしたのだ。この作品なら、映像を忠実に活字化しつつも自分の色も出せると思って書くのが楽しくなったのだ。この作品のストーリーをかいつまんで言うと、電王堂という大手代理店の会長から、普段は冴えない総務二課の係長に対して、極秘の特命が言い渡される。そしてその高橋克典扮する冴えない係長が、様々なトラブルを解決していくという単純明快なストーリーである。ドラマのジャンルで言えば、エロチックサスペンスといった流れに、かなりふざけたギャグがふんだんに挿入させているというものである。40歳以上の男性が見れば、松田優作の「蘇る金狼」や「探偵物語」を思い出す人も多いだろう。僕がこのドラマを大好きなところは、これでもかというくらい徹底的に「男はこうあるべきなんじゃないか」というテーマで貫かれているところである。男女含めて大勢のレギュラー陣が登場するのだが、軸となっている関係は、只野仁と梅宮辰夫が扮する電王堂の会長、只野仁と永井大が扮する特命任務のアシスタント役、只野仁と田山涼成扮する総務二課課長、この三つの男の関係であると僕は勝手に解釈している。一つ目の関係は「親分との関係」、二つ目の関係は「弟分との関係」、三つ目は立場で言えば上司と部下という関係なのであるが、心のつながりとして言えば「生き方を共感しあえる関係」といった感じなのである。この三つの関係に、男とはどう生きるべきかというメッセージがすべて込められているのだ。つまり、「心から信頼できる親分のためなら命を張るぞ」という男の気概。「この弟分のことは全体守ってやる」という男の器。そして、「欲望に惑わされず、地に足をつけて生きようじゃないか」という男の潔さ。このメッセージが毎回語られるのである。この三つのメッセージはまったく目新しいものではなく、むしろ陳腐とも言えるほど、これまでの男のドラマでは語られてきたことである。しかし、そんなことを重々承知で何のてらいもなく、そのメッセージを送り続けているところがこのドラマの素晴らしさであるし、僕が大好きな所以である。さらに言えば、この目新しくもないメッセージ、「男の気概」「男の器」「男の潔さ」というものが、今の男という生き物に失われつつあるものでもある。言い換えるならば、封建主義的な男というものの理想像が瓦解しはじめ、別の男の理想像が模索されはじめてきているのだと言えなくもないのかもしれない。でも封建主義的価値観を色濃く残している僕にとっては、そんな新しい男の理想像などはクソッタレなのだ。日増しに古くさくなっていくような、赤く錆びたような価値観を僕は宝物のように守って生きていきたいと思う。
 さて、只野仁のドラマは、もうひとつそのときどきの流行や風潮に対して、NOを叩きつけるという特徴もある。これもドラマの手法としては陳腐なのであるが、その陳腐で無骨なところが素晴らしい。たとえば、最近は不況で勢いをなくしているがグルメブームで高級レストランが次々に登場し、そこにカップル達が喜び勇んで行くような風潮に対して、「定食屋の方が美味しいだろう」というメッセージを投げかけたりする。セレブブームで高級ブランドに熱狂している人々を横目に見ながら、「大切なことは心の豊かさだろ」というメッセージを投げかける。あるいは、金さえあれば幸せになれるといった輩に対して、「やっぱり金じゃあ買えないものがあるぞ」というメッセージを投げかける。芸術的洗練みたいな価値基準があるとするならば、とても陳腐なメッセージだし、綺麗事のようにも受け取られかねないメッセージでもある。でもだからこそ素晴らしい。僕は綺麗事という言葉自体が好きではないのだが、綺麗事をいつも心の中に持っておかないと、ただ現実に従いながら生きていくことになってしまうと僕は思っている。現実を踏まえて出てくる言葉の方が、実感がこもっているかもしれないが、逆にそこに希望の足音が聞こえてこない。綺麗事とは、つまりは理想であり希望なのである。衣食足りて礼節を知る、という諺があるが、僕は先人が考えた言葉に異論を唱えるようでやや気が引けるが、そんなんじゃダメだと思っている。衣食足りなくても礼節を知る、という、少なくともそういう気構えで生きていきたい。
 最近の日本は、いよいよ暗いムードが社会を覆っている。サラリーマンの昼食は250円の時代になったと、テレビで特集をやっていた。また、昨日、元厚生事務次官が刺殺された事件も起こった。犯人は捕まっていないが、年金制度に対する不満から来るテロではないかと報じられている。こんな暗いムードの世の中だからこそ、あるいは自分の生活が苦しいときこそ、綺麗事を口にしようじゃないかと僕は主張したい。そして、自分のことで精一杯の生活のなかでも、男の気概・男の器・男の潔さを持っていようじゃないかと、自分を含めた男たちに言いたい。僕たちは生活するために生きているのではなく、生きるために生活という手段があるだけなのだから。いくら生活を持続しても、魂が死んでしまったら、生きることに意味などない。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*友野康治オフィシャルサイト「LOVE MYSELF」へもお立ち寄り下さい。
2008年11月28日号(vol.179)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-11-25 00:01 | ニッポンからの手紙

vol.165/景気対策に必要なものは祭だ<友野コージ>

 まもなくアメリカ大統領選の結果が出る。アメリカの大統領選は、単に一国の大統領を決める手続きという意味合いを遙かに超えて、1年以上かけて行われる壮大な祭だと思う。祭が祭たる必要条件は、そこに「日常を忘れさせる熱狂」があるということであろう。僕は常々、人間が集まる共同体には「物語」と「祭」というものが欠かせないと思っている。社会が存続していくために必要なことが「物語」、社会の現状を打破するために必要なことが「祭」だと考えている。アメリカのことはよく知らないが、アメリカという国が存続していくために必要な物語がキリスト教で現状を打破するために必要な祭が大統領選なのではないかと見ている。
 日本は現在、アメリカからはじまった金融危機のあおりを受けて株価は急落し円高が進み、それによって銀行や保険会社の資産が激減し輸出企業が打撃を受け、実質経済が不景気に突入していると言われている。そんななか麻生内閣では、まずは何よりも景気対策を優先すると宣言し、20兆以上の財政出動を訴えている。財政出動の中身は色々とあるが、その目玉の一つに定額給付というものがある。要するに、金をあげるから消費してくれという政策である。4人家族で、6万円ほどの給付が得られるのだそうだ。その他に住宅減税や高速道路料金の値下げなど、色々とメニューは盛り込まれているが、僕はさほどの効果があらわれないのではないかと思っている。財政出動をするとマスコミがすぐに「バラマキ」とレッテルを貼るのは良くないと思うが、財政出動が悪いのではなくそこに祭がないからダメなのだと、僕は判断している。麻生首相はいかにも国民生活を最優先するといった口ぶりで、解散総選挙よりも景気対策と言っているが、その考え方は根本的に間違っている。金融危機の張本人であるアメリカでは、大統領選挙で熱狂しているではないか。一方では、金融関連企業が破綻したりホームレスが増えたりもしているが、同時に大統領選で熱狂しているのがアメリカである。日本の総選挙が祭になりうるかどうかは疑問なので、すぐに解散総選挙をした方がいいと主張しているのではない。解散総選挙をすると政治空白ができてしまい、国民の生活はますます悪化してしまうと麻生首相は主張しているが、政治空白よりも祭空白の方が問題なのだ。だから、解散しようが景気対策をしようが、そこに祭がなければ国は活性化しないと僕は言いたい。なぜと言って、景気向上には、実際の生活状況よりもマインドの方が強く関わってくるからだ。給付金をもらったって、マインドが変わらなければ、国民は貯金するだである。マインドを変えるために欠かせないことが祭だと思っているのだ。具体例をあげてみよう。たとえば僕が2万円の給付金をもらったところで、何かアクションを起こすかといえば起こさない。貯金をしておくだけで終わるだろう。だが、「ソープランド祭」という祭が行われたとしよう。ソープランドの入浴料を国の財政出動によって全店無料にするのである。そうすると、せっかくだから行ってみようと僕は思うかもしれない。この「せっかくだから」というマインドが大切なのである。是非とも行ってみようという人だけでは消費への刺激にはならない。「せっかくだから」人種を取り込むことで消費が刺激されるのだ。そして、僕はソープランドに行って入浴料は無料だがサービス料は支払うわけである。結果として消費が喚起されることにつながっている。給付金2万をもらえば、ソープランドの入浴料は払えるが、「せっかくだから」というマインドがないために、行こうとは思わないわけである。では、「ラブホテル祭」という祭が行われたとしよう。現在僕には、ラブホテルに行ってくれるような女性はいないし、給付金2万円をもらったからといってラブホテルに女性を誘おうとは思わない。だが、「ラブホテル祭」で国の財政出動によってラブホテル代が全店無料になったとしよう。そうしたら、「せっかくだからラブホテルに行ってみよう」と女性を誘うかもしれない。そうなると、ラブホテルに誘うためのシチュエーションを作るために、そこそこのお店でディナーを食べワインなどを飲むだろう。そこで消費が喚起されるわけである。これが祭の効用である。そして、非日常的な「祭」と日常的な「物語」が線でつながっていくと、国家というものに明確なビジョンが見えて最高の形になるのである。これについても軽く例をあげると、「不倫奨励法」という法律を作り、不倫関係を国家が支援していくとする。これはつまり、家族という物語だけでは停滞する社会に対して、家族以外の関係に物語のスポットを当てていくということを意味する。つまり、男女には夫婦という関係が絶対ではありませんというビジョンが見えてくるわけである。この物語があった上で、「ラブホテル不倫祭」という祭を行うとする。不倫関係にある男女の場合、宿泊料を無料にするわけだ。このようにすると、男女の新しい物語と、その物語を活性化するための祭というものにベクトルが生まれ、大きなうねりとなっていくのである。僕が言っているたとえは、わかりやすく極端なことを持ち出しているだけであるが、国家作りとはこういうものではないかと、政治の役割とはこういうものではないかと思うのだ。ところで、最近僕は毎日毎日原稿を書くだけの生活を送っている。あーあ、僕とラブホテルに行ってくれる飛びきりいい女はいないだろうか。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
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2008年11月14日号(vol.178)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-11-13 06:32 | ニッポンからの手紙

vol.164/流れ<友野コージ>

 麻雀をやるときに、僕が一番気にすることは「流れ」である。今、誰に運があるのか、自分の運はどの程度か、その流れを読みながら打ち方を変えていくのだ。麻雀には手作りにおける技術や、相手の手を読む技術もある。けれど、いくら論理的な技術に優れていても、流れを感じ取ったり、流れを引き寄せる、論理では説明しにくい勘所を押さえないと、絶対に勝てないと僕は思っている。自分より明らかに運が勝っている人間がリーチをかけたら、たとえ自分がかなり良い待ちでテンパッたとしても慎重になる。逆に、自分に運が来ていると思ったら、牌の来るままに手作りをして、かなり待ちの悪いテンパイでも即リーチをする。そして、僕が最も緊張感を持つのは南家のときである。点棒状況や相手によって方針は変わるが、南家のときに3900か5200であがることを考えることが多い。親の前だから千点でもいいから上がって親を引き寄せようと思っても、肝心の東家になったとき、配牌やツモに勢いがないことが多い。逆に大きい手を狙って、もちろん上がれればいいが、手作りに時間がかかり、その間に親に連荘されたらその人間に勢いがついてしまう。従って、3900か5200くらいの手で上がろうというビジョンを立てるのだ。
 流れというものは、本当に不思議で恐ろしいものである。ツイてないときには「なぜよりによって、この牌が当たるんだ」と、自殺したくなるような気持に陥る。しかし、ツイているときには、「いやー、ラス牌のカンチャンをよくぞツモった」と、天にも昇るような気持になる。

 この「流れ」というものは、何も麻雀や花札、トランプなどのギャンブルだけに言えることではない。スポーツなどにも明らかに流れというものがある。特に野球などを見ていると、つくづく流れというものを実感する。たとえば、前回のWBC。日本は世界一に輝いたのだが、この大会では絵に描いたような流れというものが感じられた。まず、予選で日本は韓国に敗れた。次に本選のリーグ戦で韓国に再び敗れ、アメリカにも敗れ、準決勝進出は絶望的であった。ところがメキシコがアメリカに勝利するという予想だにしなかった番狂わせが起こり、日本は準決勝に進出することになったのだ。一度あきらめていたことが、運によって復活する。ここで流れが日本に来たのである。そして、二度連続で負けている韓国が準決勝の相手である。実力が拮抗しているチーム同士で、二回連続で負けている相手と、流れが来ているときに三度目の戦いをする。これは、勝つことが約束された流れといっていい。無論、こんな分析をしたら、死に物狂いで頑張った選手に失礼であるが、ファンの楽しみとして言わせてもらうなら、流れが日本に来ていたのだ。そして、韓国に勝利して、勢いそのままにキューバにも勝利したのだ。
 今年の日本のプロ野球。阪神ファンの僕としては、話もしたくないほどがっかりのシーズンであった。ただ、悪い予感は、タイガースが大差で1位のときから、僕の脳裏をかすめていた。流れが良くないのだ。そして、流れを良くする工夫もなかったように思う。オリンピックのときに、藤川・矢野・新井という主力が抜けたことや、時を同じくして高校野球のためロードが続いたということは、前からわかっていることである。僕がイヤな予感をしていたのは、9月、 10月に流れを引き寄せるために、7月、8月の間に上手に「抜く」ということが見られなかったからだ。全試合勝とうとしているように見受けられ、それがファンとして心配だったのだ。監督、コーチなどにはマスコミやファンにはわからない内部事情などもあるとは思うが、勝手なことを言わせてもらえば、10試合くらい藤川をはじめとするJFKを休ませるくらいの時期があってもいいと思っていた。それを休ませるどころか、同点でも抑えの藤川を起用する試合が何試合もあった。負けている試合でもウイリアムスや久保田を起用する試合が何試合もあった。これは、麻雀でいうところの、断トツのトップで無理せずオリればいい局面で、全力であがりに行くような行為である。結果として、ジャイアンツに抜かれたからこんなことを言っているのでは断じてない。実は昨年も、状況は正反対であったが、同じ心境になったのだ。昨年は、9月を過ぎてから3位だったタイガースは猛追して、一時はトップにも立った。けれど、ラスト10試合くらいで息切れして、結局3位に終わった。昨年は追う立場、今年は追われる立場であったが、流れという意味で同じ心境になったのだ。昨年は、いくら猛追しても絶対にタイガースは優勝できないと思った。なぜなら、タイガースが猛追している頃、中日はいい意味で力を抜いていた。勝負所のために、あえてピークにならないようにしていたのだ。そういえば、落合は麻雀が好きだ。だから、勝負勘というものがあるような気がする。ジャイアンツも昨年はペナントレースで力を使い切ってしまったような感じだった。だから、プレーオフで中日にあっけなく敗れてしまった。でも、今年のジャイアンツは違った。数字的に見れば、8月以降、もの凄い勝率で勝ち続けていたが、原監督の表情や采配が昨年と随分違っていた。つまり、どこかに余裕を残しながら、けれど必死に戦っていた。選手起用でもベテランや怪我人を上手に休ませていった。そして、チームのピークをかなり終わり間際に設定していたのがハッキリと見てとれた。
 2位になったタイガースは、中日とプレーオフをしたが、僕はもちろん勝って欲しいという願望はあったが、「今年は終わった」と思って、たいして結果を気にしなかった。どう考えても中日に勝てる流れではなかったし、よしんば中日に勝ったとしても、ジャイアンツには絶対に勝てないと思った。ペナントレースで大逆転を許したジャイアンツに、再びプレーオフで負ける屈辱を目の当たりにしたくなかったから、もう中日戦で負けていいとも思っていた。結局、1 勝2敗で敗れた。紙一重の接戦のように見えるが、僕は負けるべくして負けたように感じた。第三戦、0対0で迎えた9回に藤川がタイロンウッズに決勝ホームランを打たれて負けた。タイガースの宝である球児を責めるつもりなど、毛頭ない。第一戦、0対2で負けている9回に藤川を投げさせた。藤川は三者凡退におさえたが、結局9回裏に点を取れずに負けた。第二戦は、勝っている状況で、藤川が9回を抑えて勝利した。もしも、というのは結果論ではなく、流れとして、第一戦に藤川を使わずに負けていたとすれば、第三戦に藤川がタイロンウッズにホームランを打たれなかったのではないか。僕はそう思えてならない。
……僕は、就任したときから岡田監督の采配には、ファンとして不信感を持っていた。でも、中日に敗れた最後の試合が終わったあと、岡田監督が顔をぐしゃぐしゃにして涙を流していたのを見たら、やはりジーンときた。
 タイガース万歳! サヨナラ岡田!
(原文まま)
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2008年10月31日号(vol.177)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-10-31 09:46 | ニッポンからの手紙

vol.163/今は本当に不況なのだろうか<友野コージ>

 今は本当に不況なのだろうかと考えたとき、明らかに不況なのだと思う。原油の高騰や、アメリカの金融危機に端を発した世界同時株安も深刻な状況のようである。そして、保険会社に勤めている人間に聞くと、保険の解約が相次いでいるらしい。クラブのホステスに聞けば、客が本当に少ないと言っている。銀行の貸し渋りや貸しはがしで、中小零細企業の倒産も増加しているらしい。農業や漁業も国からの援助がないと、どうにもやっていけないという声を聞く。企業の正規採用の数は格段に減り、派遣という形で正規社員よりかなり低い収入で働いている人も多いらしい。ネットカフェ難民と呼ばれ、寝泊まりする自分の住居もない人も少なくないらしい。小泉改革によって、地方の疲弊はかなりのものだと連日のようにマスコミは報道している。
 みんな事実なのだと思うし、僕はそれを他人事のように高みの見物をしているほど金持ちでもないし未来が明るいわけでもない。また僕は東京に住んでいるので、地方の事情というものをまのあたりにしているわけではない。それでも、僕は「今は本当に不況なのだろうか」と問うてみたりする。確かに、ある時期と比較すると、今の状況はかなり悪い状態で、収入も減っているから不況だと言われれば、不況なのだと思う。本当に資金繰りがどうにもならずに借金を抱え、家族を守るために自殺をして保険金を残そうとする人もいると思う。生と死の境をさまよっている人が多くいるのも事実だと思う。けれど同時に、「便乗不況嘆き者」も僕はかなりの人数いるような気がしてならない。「あの頃に比べると、随分収入も減り、前ほど贅沢ができなくなった」とか「生活は何とか出来ているけれど、いつ病気になるかもわからないのに、もしものときに備えるだけの貯金ができていない」とか「以前は年に1〜2度は家族旅行できていたのに、最近は旅行にも行けない」とか、その比較差をもって「不況だ」と言っている人が多いのではないかと思うのだ。
 僕の友人の何人かも「不況」だとか「俺は貧乏だから」などと口癖のように言って、一緒に食事をすると僕がごちそうするハメになることも多いのだが、実際は給料の中から家賃や光熱費や食費などを差し引き、プラス数万の積み立てをして、その上で残金の自分が自由にできるお金が少ないから「貧乏だ」と言っている奴もいる。そして、僕などは貯金などもしないで有り金を使ってしまうものだから、貯金をしている「自称貧乏人」に貯金もしていない僕がごちそうするといったことがしばしば起こる。もっと言えば、友人はほとんど毎日外食をしており、僕はひとりのときはスーパーに行って「ほうれん草」や「ブロッコリー」は高いから買えない、やはり「もやし」だななどと野菜を選びながら自炊をしているわけである。内心、「おいおい、一体どっちが貧乏なんだよ」と言いたくなるが、僕は自分のことを貧乏だとは言わない。なぜなら、もやしだって十分美味しいからである。タバコだって買っているし、缶コーヒーだって1日1本は買っている。これは、貧乏とは言えないなと思うのである。そして、今僕は作家という仕事をしているが、作家なんて何の保証もないから、コンビニや牛丼屋やファミレスなどに行くと、必ずアルバイトの時給金額を確認する。その金額は東京と地方ではだいぶ差があるのだと思うが、深夜のバイトだと、だいたい時給は1000円くらいはもらえる。1200円くらいのところもある。1000円だとして、深夜23時から朝7時まで働いたら1日8000円。週1回休んだとして、月の収入は20万である。日本の、東京の物価状況を踏まえ、40歳を超えた者の給料として20万は、決して高給取りではない。バイトだとボーナスもないから、家族旅行なんてできない。高級焼肉屋だって行けない。ブランド物の洋服や靴だって買えない。でも、それが貧乏とか不況とかいうものだろうかと言うと、僕にはそうは思えないのだ。吉野屋の牛丼や立ち食い蕎麦くらいは食べられるし、タバコ(アメリカの価格だとタバコはきつくなるかもしれないが)1日1箱くらいは買えるし、ビールは微妙でも発泡酒1本くらいは飲めたりする。これは、金持ちとは言わないが、さりとて貧乏でもない。
 別の角度から話をすれば、人間という生き物の精神構造はおかしなもので、自分の収入が20万で、周囲の人間も皆20万であれば納得をするのに、周囲に50万だの100万だの500万だのという収入の人間がいると、本当は周りの人間の収入がいくらであっても自分の収入が20万である事実は一緒なのに、「俺は貧乏だ」という意識が何倍も膨れあがるのだ。従って、自分の収入が100万であっても、周囲が1000万円の収入があれば「俺は貧乏だ」と必ず思うものなのだ。
……福田首相の辞任後の自民党総裁選、あるいは来るべき総選挙に向けての与野党の論戦などを聞いていると、9割以上が社会保障も含めた経済の話、つまり「金」の話である。金のことも大事である。しかし、命と精神というものが守られた上に、その次に大事なテーマが金の問題だと僕は思っている。それは、衣食足りて礼節を知るといった、金があるものの立場で主張しているのではない。命がなくなりゃ、金が残っても意味がないでしょ、といった類のことを言っているのだ。そう考えると、経済の話も結構であるが、「北朝鮮の拉致問題」や「無差別殺人を即刻阻止するための保安の問題」や「無差別殺人や親子間の殺人を長期的に阻止するための教育問題」や「精神の自由や、心のありかたの基本となる憲法問題」「食の安全や、食糧不足に備えての農業問題」などなど、経済以外のテーマでもっと語られなければならない問題がいくらでもあるのに、なぜ経済一色になってしまうのか、とても不思議に感じる。貧乏を嘆くよりも、自分の最愛の家族が別の国家に拉致される方が遙かに深刻であるし、不況を嘆くよりも、自分の最愛の恋人が無差別殺人で殺される方が遙かに絶望するし、野菜の高騰を嘆くよりも八百屋やスーパーに野菜が全くなくなってしまう方が遙かに問題だ。そんな主張をしてくれる人に、総理大臣をやってもらい。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
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2008年10月17日号(vol.176)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-10-18 07:30 | ニッポンからの手紙

vol.162/サザンの時代<友野コージ>

「みんな、サザンオールスターズが好きなんだなあ」と、最近思うことが多い。サザンは今年いっぱいで活動休止宣言をしていることもあり、ここのところテレビに出演している機会も多いし、ライブなども活発に行われているため、余計話題にのぼりやすいのだろう。僕のような40代は、サザンがデビューしたときに中学生くらいだったから、同級生でもファンは多かったし、僕自身も高校のときの文化祭でライブをやったときにはサザンの曲を演奏したりもした。ただ、サザンが凄いのは若者から中年に至るまで広く支持されていることである。僕より上の50代のオジサン達で、吉田拓郎や井上陽水、かぐや姫など、いわゆるフォークソングと言われた歌をこよなく愛している人たちも、サザンは好きである。逆に、20代前半くらいの若い女性達も、今旬のアーティストとともにサザンのことは好きだったりする。カラオケなどに行くと、「友野さん、サザン歌って」とリクエストされることがよくあるのだが、僕は何となくメロディーはわかっているが、歌ったことがほとんどないので期待に応えられなかったりする。歌は世に連れて、世代とともに共有する場合がほとんどで、そういった意味ではサザンの受け入れられ方は凄いものだと思う。先日、50代の仲の良い先輩が、サザンのライブを見に行ってきたという話を聞いたが、デビューからのヒット曲をメドレーで歌い続けて、とても楽しいコンサートだったと言っていた。確かに、いい。僕は自分でサザンのレコードやCDを買ったことはないが、どの曲を聴いていてもなじみ深い気がするし、聴いていて心地よい。昔のヒット曲を聴けば、懐かしさとともに、その当時好きだった女の子の顔が浮かんだりもする。特に僕などは、故郷が神奈川の湘南なので、桑田佳祐の歌詞によく出てくる海の風景はとても身近である。ここ最近の新しい曲を聴いても、やはり、いい。しかし、……という接続詞を使うってことは、サザンについて何か否定的なことを書くという流れなのだが、そこまで否定的に書くことも、実はない。まあ、あえて言うならば、「心地よすぎる」という感じがするのだ。言い方を変えるならば、「聴くものを喜ばせてくれすぎる」とでも言ったらいいだろうか。聴くものを心地よくしてくれて、喜ばせてくれるのだから、それこそプロ中のプロと言えるのだが、僕はサザンにではなく、時代というものに、少しだけ違和感を感じてしまうのだ。
「サザンの時代」だと思う。つまり、才能ある大多数の人から支持をされているミュージシャンが、ファンひいては国民にサービスする時代。桑田佳祐は、その音楽的な才能のみならず、ファンに愛嬌を振りまき、振る舞いや衣装やしゃべりなどでも楽しませてくれる。ライブというイベントの主役でありながら、幹事役まで背負っているように見える。
僕は常々、ミュージシャンは音楽というもので聴くものを喜ばせてくれているので、それ以上のファンサービスはいらないと思っていたし、もっと言えば私生活がどんなにいい加減だろうと、違法行為を犯そうと構わないと思っていた。それは、スポーツ選手も同じことが言える。並の人間では、出来ない技を見せてくれるだけで素晴らしいわけで、それ以上に丁寧なコメントなどはいらないし、ましてや社会人として常識など守らなくてもいいと思っている。しかし、今の時代はそういうわけにはいかない。自分の能力を披露するだけでなく、感じのいいコメントやユーモアのあるしゃべりなどが求められている。さらに、「子供達に夢を与えるものとして」という金科玉条の下、私生活でもはみ出したことはしてはいけないという監視の目が光っている。ここに、現在の日本社会の「偉大な人が偉大足り得るのは、凡人達のお許しが必要である」という、パラドクスに迷い込んでいるのだ。話が飛躍するが、このことを顕著にあらわしているのが、憲法1条である。つまり、天皇は国民統合の象徴であると述べておいて、そのことは国民の総意に基づく、という全く意味不明の文面が、今の世の中の有りようと如実に語っている、と僕は思っている。「象徴」という俗世には手の届かない崇高なる存在と言っておきながら、その存在は国民の総意に基づくと、俗世に委ねているのだ。これは、大いなる矛盾ではなかろうか。結局、社会の様々な出来事も、同じような現象が起きていると思うのだ。才能がある人を「凄い」と喝采しながらも、何か傲慢な態度を取ったら即座にブーイングに変わっていくという図式は、憲法1条の有りようと酷似していると思う。
 話が随分脱線しているようだが、要するに、「サザンの時代」ということは、国民に対して、これでもかというサービスをしてくれる愛すべき存在にならないと、スターというポジションを守れない時代、ということを僕は言いたいのだ。美空ひばり、石原裕次郎、長島茂雄、力道山などの昭和の大スター。国民達は、遙かに仰ぎ見るといった感覚で彼らを尊敬したり、支持したり、愛したりしていたのではないだろうか。
 これは政治の世界でも同じことが言える。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、田中角栄など。「バカヤロー」と言って解散をしたり、「テレビ局は出ていけ」と言ってから辞任会見を行ったり、毅然たる態度が通用していたのだ。しかし、今や「あなたとは違うんです」とか「国民がやかましいから」などと口走っただけで、問題発言として糾弾されてしまう。
そんな風に今の時代の気分を見てみると、小泉元総理というのは、サザンっぽい気がする。いまだに、若者から年寄りまで小泉さんを支持する国民は多い。小泉さんのコメントにも、わかりやすくてスッキリさせてくれるメロディーがあるのだろう。サザンが今年、活動休止を前にして出した新曲は「I AM YOUR SINGER」というタイトルである。小泉さんの雰囲気にも、「僕は、永田町のためではなく、あなたたち国民のための総理大臣なんだ」といったメッセージが感じられる。
「サザンの時代」である。それを踏まえていれば、今度の自民党総裁選で誰が選ばれるか、予想がつくだろう。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*友野康治オフィシャルサイト「LOVE MYSELF」へもお立ち寄り下さい。
2008年9月26日号(vol.175)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-09-26 06:18 | ニッポンからの手紙

vol.161/辞任を表明した福田首相の「責任」<友野コージ>

 僕が仕事で、雑誌などの原稿を依頼されたときによくあることであるが、担当編集者から頻繁に催促はしてくるくせに、原稿を送った後は「受け取りました」のひと言もないまま放置されることが多い。そんな丁重にお礼を言えとか、原稿に関する詳しい感想を述べよなどと、偉そうなことを言うつもりはないが、「ひと言くらい、なんかリアクションがあってもいいんじゃないの」と思う。まあでも、「編集者も忙しいんだろうな、また次のこと次のこと」と追われていて、済んだことのフォローまで手が回らないのだろうと想像することで、自分を納得させる。自分のことに関しては、その程度で気持は納まるのだが、テレビを中心とするマスコミの政治批判的報道に関しては、「言いっぱなしはやめよろ、前と言うことが全然違うじゃないか、あのときの発言はどこへ言ってしまったんだ」と憤慨することが、しょっちゅうある。テレビ関係者も日々追われているのだと思う。毎日毎日、他局よりインパクトのある番組にしようと懸命になって、報道してしまった後のことをフォローする余裕はないのであろう。でも、事が総理大臣などに及ぶことであれば、そう簡単に置き去りにされては困ると僕は思うのだ。
 9月1日、福田首相が辞任を表明した。昨年の9月の終わりに福田さんが総理大臣に就任して以来、マスコミは世論調査というものも武器にしながら、福田首相を非難し続けてきた。そして、喫緊の国民判断が参議員選挙の結果、すなわち「自民党にノー」という声なのだから、福田さんは早々に解散して総選挙を行うべきだという声を何度も聞いてきた。ところが、今回、解散ではないが、辞任をすると表明した途端、「政権を放り出すとは、何と無責任なことか!」と非難している。福田さんからすれば、これまで散々僕を非難しておいて、僕が観念して辞任したら、今度は無責任と言われるなら、僕はどうすればいいのか、と思っていることだろう。加えてマスコミからは、「あまりにも唐突な辞任だ」ということが非難げに語られているが、唐突じゃない辞任とはどういうものなのか、教えて欲しい。唐突とは、つまり、政治家からのリークもなかったし、内閣改造も行ったばかりの今なぜ、辞任するのかということなのだろう。しかし、辞任というものは唐突に行うものであるし、臨時国会がはじまる前であり、補正予算の見通しがたったタイミングを見て、そして「どうせ僕は人気ないから、これからまた叩かれるでしょ」という自虐的な気持もあったと思うが、9月1日に辞任したというのは、絶妙なタイミングだと思う。そもそも福田さんが気の毒だと思うのは、これまで非難されていたほとんどのことは、小泉首相時代に決まったことばかりである。後期高齢者問題、テロ特措法、格差問題などなど。安倍さんが病気のため、昨年辞任して、周囲から「福田さんしかいない」ということで、渋々首相を引き受け、もともと彼は長期政権を狙っていたわけではなく、何とか国民を安心させられるような下地を作って、次の人に総理を譲ろうと、おそらく就任初日から福田さんは辞任するタイミングを見計らっていたような気さえする。そして、小泉時代のことで非難され、とばっちりを受け、そのせいでなかなか自分の思い通りの政策を実現できず、世論調査の不人気や、民主党の敵対姿勢、公明党とのズレなど、マイナス要素が積み重なり、今回辞任したのである。僕は福田さんを支持しているわけではないし、求心力がなく、国家像を明確に語らない人だとやきもきしていたが、今回辞任したことは、自分の力不足を含めて実にまっとうな行為であり時期だと思うのだ。臨時国会がはじまると、どうせ民主党とマスコミから、太田農林大臣の事務所費問題が大きく取りあげられ、福田さんの任命責任が問われることが必至である。問題を大きくセンセーショナルにしたい欲望を持つマスコミという人種が、好んで使う言葉に「責任」というものがある。何かと言えば「説明責任」「任命責任」「道義的責任」「監督責任」という言葉によって、攻撃の対象を広げたがる。はっきり言って、太田農林大臣の事務所費問題に関して、福田総理の任命責任なんてない、と僕は思う。一応ルールが決められているなかで、太田農林大臣本人の責任はあるかもしれないが、福田総理の責任なんてない。総理大臣が内閣に関しての任命責任が発生するのは、自分が指し示す政策やビジョンに関することで、ある大臣がその政策に矛盾するような態度や行動を取ったときに生じるものである。それでも、もしも、各大臣の不祥事に関して総理大臣に任命責任があると言う人がいるならば、僕はその人に問いたい。「ならば、天皇の承認責任は生じるのか」と。また、別の話をするならば、小泉さんが首相時代、国会の質問に対して、「僕は格差社会が必ずしも悪いとは思っていない」と明確に語っている。他の大臣が「日本に格差と言えるものはない」といった、やや逃げ腰の答弁に終始しているなかで、小泉さんは明確に、格差は悪くないと言って、総理を続けたのである。ということは、現在、日本の格差社会と呼ばれる状態を嘆いている人の中で、かつての選挙、特に郵政選挙において小泉さんを支持した有権者は、「投票責任」を問われるべきである。さらに、マスコミの「報道責任」だって問われるべきなのである。
 僕は、一国の総理が、自らの力不足にも言及しながら、様々な現状を鑑みて、辞任という決断をしたときに、「お疲れさまでした。どうぞ、しばらくゆっくり休んでください」という気持でいたい。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*友野康治オフィシャルサイト「LOVE MYSELF」へもお立ち寄り下さい。
2008年9月12日号(vol.174)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-09-09 10:22 | ニッポンからの手紙

vol.160/人生とは、真夏に厚い布団をかぶって寝るようなものなのだ<友野コージ>

 どの季節が好きかと聞かれれば、迷わず夏と答える僕は、蝉の声が聞こえるなかで、太陽の日射しを浴びることがとても好きである。そのくせ、部屋のなかでも真夏の暑さを自然のまま受け入れているかと言えば、そうではなく、冷房の力を借りている。夜など、冷房で部屋を冷やさないと暑くて眠れない。大学に入学すると同時に上京して、安いアパートを借りて一人暮らしをはじめたときには、部屋に冷暖房などなかった。夏はただ部屋の窓を開けるだけで生活していた。しかも、そのアパートの窓には網戸というものがなかったので、虫が遠慮なく部屋に入ってきたが、それほど気にならなかった。今に比べると、遙かに生命力があったのだなあと思う。ただそうは言っても、暑くて眠れないときはあった。そんなとき、僕は冬にかけるような、厚手の布団を頭ごとかぶっていた。当然めちゃくちゃ暑い。汗がダラダラ出る。でも、それを15分くらい続けるのだ。そして、その布団をはいだとき、もの凄く涼しく感じて快適になるのだ。その快適な間を狙って寝るわけである。僕は人生とはそういうものなのではないかと思うのだ。つまり、同じ状況に対して、いかにその状況を快適と感じられるように、工夫したりフィクション化することが人生なのではないかと思うのだ。
 最近、社会や親などへの不満やストレスから、無差別殺人が何件も続けて起きている。その犯人のブログなどには、「正規採用じゃないから給料が安い」とか「彼女ができない」とか「自分は落ちこぼれ」などと不満が並べられ、そして「誰でもいいから殺したくなった」と犯行に至るのだ。加えて、マスコミでは、こういった事件が起きる現在の社会情勢などが語られ、「格差社会のひずみ」や「政治によって弱者が苦しめられている」などが犯罪を誘因しているかのような発言をするものが多い。バカじゃないだろうかと、僕は思う。一体、今の社会が良くないとして、だったらいつの社会が良かったと言いたいのか。小泉首相以前は良かったのか。バブル期は良かったのか。高度成長期は良かったのか。戦後間もない頃は良かったのか。明治時代や江戸時代は良かったのか。いつの時代も、人生とはしんどいことばかりなのである。楽しいことは稀にしかない。しんどいことがあるからこそ、稀にある楽しさが実感できるのだし、その楽しさだって自分の創意工夫で楽しいと思えるようにしていくしかないのである。世の中に不満を言う人間のコメントを聞いていると、幸せの平均値というものを随分上に引き上げておいて、自分はその平均値よりも恐ろしく低い生活をしていると考えているのがよくわかる。愚かである。たとえば、自分に彼女ができて、セックスしまくることが、幸せの平均値であり多くの人がそうしていると決めつけているから、自分は不幸だと思うのだ。しかし、オナニーできる自由が守られていることを幸せだと実感できたら、それで意識は劇的に変わるのである。「なんだ、俺っていつだってオナニーできるじゃないか。しかもそのときの妄想では飛びきりいい女をいやらしく愛撫しているところだって思い浮かべられるんだ。なんて幸せ者なんだ」このように構えておけばいいのだ。ときには、オナニーを10 日くらい我慢してみるのもいい。そして、やっと11日目に解禁されたときのオナニーは、この上ない喜びとなるのだ。こういう生活を、幸せの平均値に設定しておくのである。そうして、もしもいつの日か、彼女が出来ちゃったりすれば、「こんな幸せでいいのだろうか。恐いくらいだ」と思えるのである。これが、僕の発明した「真夏に厚い布団・幸せ理論」なのである。

 現在、オリンピックが行われている。僕は日本選手を応援しながら、見ているうちに目を伏せたくなるときがある。4年間、血の滲むような練習を続けて、晴れ舞台に立ったと思ったら、あっという間に敗者になり、自分のオリンピックが終了してしまう選手がいっぱいいる。この悔しさを絶対晴らしてやると思っても、これから4年間努力し続けなければいけないのである。しかも、4年後に勝利の保証もないどころか、出場できるかどうかさえわからないのだ。まことにスポーツの世界は過酷で残酷だと思う。現在の日本社会程度の状況を「格差社会」などと顔をしかめている輩が多いが、スポーツほど勝者と敗者の明暗がハッキリと別れて、それでも敗者復活の闘いを挑んでいくアスリート達の精神力を見ていると、頭が下がる。逆に、メダルを獲得したものたちにしたって、歓喜の声はあげているが、そこに見てとれるのは「やっと重圧から解放された」「周りの期待に応えられてホッとした」「今はただ休みたい」という、つまり喜びというより安堵の方が強いように思える。しかも、競技によっては、いくらメダルを獲得したからといって、数ヶ月すれば忘れ去れ、生活費のことを考えながら、練習に励む人間だっているだろう。彼らを見ていると、勝者になっても敗者になっても、やはり人生はしんどいものだと痛感させられる。同時に彼らは、長い間しんどい思いを味わいながら、一瞬の輝きに賭けて生きているようにも思える。まさに「真夏に暑い布団・幸せ理論」の体現者たちである。
 彼らのストイックな生き方に敬意を表して、僕は閉会式までオナニーを我慢しようと思う。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
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2008年8月29日号(vol.173)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-08-28 06:09 | ニッポンからの手紙

vol.159/時の流れを感じると、僕は涙が出そうになる<友野コージ>

 7月の終わりにちらっと実家の神奈川に帰ったのだが、そこにあるはずの風景がなくなっていたり、そこにないはずだった風景が増えていたりすると、時は目まぐるしく過ぎ去っていくのだなあと実感する。そんな時の流れを感じると、最近僕は涙が出そうになることがしばしばある。悲しいわけではない。ノスタルジックな気分に襲われるからでもない。過ぎ去り過去に戻りたいわけでもない。そして、僕は前を行くんだと自分に言い聞かせながら、随分会っていない友や恩師のことなどを思い浮かべたりして、そうして涙が出そうになるのである。僕も年を取ったのだなあ。
 そんな想いを一番痛感するのは、桑田と清原を見ると、僕は涙が出そうになるのだ。30代後半から40代くらいの野球好きの男性なら、僕と近い感情を抱いている人も多いだろうが、二人の姿を見ているとなぜか涙が出そうになる。かつて甲子園を熱狂させたPL学園のエースと4番。それもただのエースと 4番ではない。1年生からともにレギュラーでエースと4番を勤め、1年の夏から4年の夏まで合計5回の甲子園出場。桑田は最多の勝利数をあげ、清原は最多のホームランを打っているのだ。そして、かの有名な悲劇のドラフト。ジャイアンツに入ることを夢見て、指名されることを信じていた清原の前で、あろうことか早稲田進学を匂わせていた桑田が1位指名されるというこの宿命。その後、桑田は巨人のエースとして活躍し、清原は西武の4番として活躍。日本シリーズで巨人を破って日本一になる寸前に、清原がファーストの守備につきながら涙を流していたシーンは今でも脳裏に焼き付いている。
 やがて、何の因果か清原が巨人に移籍して、ふたりはチームメイトとなった。折しも、清原が巨人に移籍する前年、桑田は膝の怪我のため1シーズンを棒に振っている。そして、開幕第3戦に復活のマウンド。その日に、清原は移籍後初となるホームランを打ち、桑田に復活の勝利をプレゼントした。
 甲子園のヒーローだったふたりは、プロ野球に入っても相変わらずヒーローであった。けれど、時は流れふたりはケガなどの影響もあり、ともに巨人から戦力外通告を受けることとなる。つまり、あれだけの大スター選手だったふたりが、巨人というチームでファンや球団から惜しみない感謝の気持と喝采を浴びて、最後の晴れ舞台に立つということができなかったということである。
 桑田は巨人を退団して、メージャー挑戦を決めた。マイナーリーグからスタートして、オープン戦で結果を出し、メジャー昇格を目前に控えたところでのケガ。また、再起へのやり直し。懸命のリハビリのあと、昨年の途中からメージャーのマウンドを踏んだ。けれど、足の状態が思わしくなかったので、昨年のオフに手術をして、今年もう一度チャレンジを試みた。もう一勝負できると思ったところで、戦力外通告を受け、引退を決めた。
 一方、清原は今は亡き仰木監督に声をかけられ、オリックスでのもうひと勝負を決意した。しかし、度重なるケガで試合に出ることさえ少なくなっていった。もう再起は無理なのではないかと騒がれても、清原はあきらめなかった。
 そして、つい先頃、清原が1軍に復帰するにあたり、桑田がバッティングピッチャーを務めた。桑田は今年3月の引退後も、清原を1軍に送り出すときのバッティングピッチャーをつとめるために、ずっとピッチング練習を続けていた。雨が降るグラウンドで、桑田が投げ清原が打っているシーンを見ているだけで、僕は涙が溢れてきた。
「この約25年間、桑田も色々あったよな。栄光もあったけれど、苦悩や挫折も多かったよな。清原も色々あったよな。ヒーローにもなったけれど、屈辱もどん底もあったよなあ。……俺もさ、ふたりほど劇的に生きてきたわけではないけど、色々あったよ」そんな気持で、僕は二人を眺めていた。
 桑田は今年の春、すでに引退をして、清原もおそらく今シーズン限りで引退するだろう。スパッと、ぶざまなところも全く見せずに引退をしていった選手も多いけれど、苦悩や屈辱にまみれながら、「いや、まだだ。まだやるぞ」と挑戦を続けてきた二人に大拍手をしたい。
時の流れを感じると、涙が出そうになるその理由は、自分も含めて同時代を生きてきた人間達に、「俺たち、頑張って生きてきたよな」という、少しテレた、少し自惚れの、少し遠慮がちな、拍手したい気持のあらわれなんだと思う。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
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2008年8月15日号(vol.172)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-08-12 02:09 | ニッポンからの手紙

vol.158/山本モナは確信犯である<友野コージ>

 先日、マサチューセッツの高校で、16歳以下の女の子17人が集団妊娠した。相手の男はクラスメイトだったり、ホームレスだったり、つまり相手なんて誰でも良かったのだ。市の教育長や日本のマスコミは「妊娠のファッション化」とか「性のゲーム化」などと的はずれなことを言っていた。
 今の若い女の子たちは、おぼろげながら気づき始めてる。女性の権利を主張したり、逆に結婚して子供生んだりしても、女が解放されないことを。男と女が恋をして、独占して嫉妬して結婚して、子供が生まれて、つまりセックスを軸とした家族というものに疑問を感じ始めている。そして新しい「仮族」というものを模索し始めている。その根底にあるのは、「父親なんて誰だっていい、産むのは女なんだから」という「男の無意味化」「男の奴隷化」である。男のことで嫉妬するなんて、いかに愚かで男社会の思うつぼであるかということに気づき始めている。女にとって男なんぞ嫉妬するほど大切な存在じゃなくなり、セックスで気持ち良くさせてくれる道具であり、子供を生むための優秀でイケメンの種だけをもらう奴隷となっていく。そして、女同士の友情が強い絆になっていく。問題は、種をもらった男に「父親になんてなってもらわなくて結構。これからは快感のためのセックスを色んな男とするから」と言いながら、子育てをしていく経済力をもたなければならないこと。おそらく、遠くないうちに女性総理大臣や女性天皇が誕生し、そういう女性を支援する社会システムができる。支援を受けながら、女友達3〜4人が「仮族」を形成し、恋やセックスを楽しみながら、誰かが妊娠したらみんなで協力しあって子育てをする。それぞれ仕事もしながら。女の子が生まれたら名字を引き継ぐ。男が生まれたら奴隷となる。これが女にとって、男社会に対する最高の「女の逆襲」の形だ。
 さて、タレントの山本モナが、ジャイアンツの二岡との不倫騒動で、現在多くのバッシングを受けている。山本モナはかつて民主党議員との不倫問題で、ニュース23のキャスターを降板している。その後、事務所が同じビートたけしの応援もあり、バラエティー番組で活躍し、そしてこのほどフジテレビの「サキヨミ」という情報番組のキャスターに返り咲いた。今回の二岡との不倫騒動は、その新番組の一回目の生放送が終わったあとの深夜のことである。フジテレビには電話やメールで視聴者からの批判が相次いでいるらしい。おそらく今回も番組降板になるだろう。僕は山本モナが確信犯でやっているのではないかと思っている。その理由は彼女の名前にある。「モナ」という名前はモナリザから来ているのではないだろうか。モナリザのモデルには諸説あるが、父親のいないシングルマザーであったという可能性が高いと言われている。同時にモナリザは母性の象徴とも解釈されている。またモナリザを描いたダ・ウ゛ィンチは同性愛者あったといわれている。世界的な大ベストセラーとなった「ダ・ウ゛ィンチコード」で描かれたことは、母権社会から父権社会へ移行したことを暗示している。
 山本モナのモナという名前は、単なる偶然とは思えないのだ。彼女は、現在の一夫一妻制度をもとにした家族体制の崩壊をたくらんでいるのではないだろうか。そして、女性がもっと自由に恋をしてセックスを楽しめるような母権社会の復活を目論んでいるのではないだろうか。山本モナを世間の男が批難して、女性が喝采するなら理解できるが、現実はその逆であるようだ。女の批難によって彼女は当分ブラウン管から抹殺されるだろう。そのとき、第二の使者として彼女の妹を登場させてほしい。彼女に妹がいるかどうかは知らないが。そのとき、妹の名前は「山本リサ」であってほしい。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
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2008年7月25日号(vol.171)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-07-25 03:53 | ニッポンからの手紙