カテゴリ:Kamakiri no ashi( 22 )

vol.145/センチメンタルジャーニー<Takaki Matsumura>

 この号でtocotocoが終わる。思えば、発行人のK氏とお会いしたのは、7、8年も前のことだった。当時、私は、アートスクールに通う学生で、水彩画やイラストなどを見てもらいにK氏のもとを訪ねた。“また、ニューヨークで夢を語る変な子がきたなぁ”なんて印象だったことだろうと思う。その訪問からほどなくして、tocotocoにかかわらせてもらうこととなった。その間、tocotocoの配布や表紙の絵やデザイン、いろいろとやらせてもらった。とんでもない迷惑をかけたこともある。それでも、K氏は私を使ってくれた。いろいろなことを教わった。学校の授業なんかよりも私の人生には大きな影響を与えてくれたのである。

 2年くらい携わった後に私は日本に帰国した。今はこうして日本から原稿を送っている。時に大阪の大動脈・御堂筋のスターバックスから、時に出張先のホテルから、2週間に1度。その生活もとりあえずのところ、今回で最後となる。
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「センチメンタルジャーニー」を聴いてもまったくセンチメンタルにならない私だが、今回は少しセンチメンタルな気持ちである。何かが始まると、必ずそこには終わりというものが存在する。だからこそ、その一瞬に美しくいたいと思うのが人間というものだろう。一度しかない人生だから、悔いのない一生を送りたいということは、つまりそういうことなんだろうと思う。K氏がその昔、私に語った「一度きりだからこそ美しい」という言葉が、今ようやく実感できたような気がする。このtocotocoがどのような経緯で終わるのかは知らない。たとえそれが、美しくない終わりだったとしても、私にとってこの出会いというのは間違いなくいいものだった。私の駄文を除き、このtocotocoを手に取り、読んでいた読者の皆さまは、やはり素晴らしい出合いを果たしたはずである。できれば続いて欲しいと思うが、いったん皆さまとはお別れすることになる。毎回お付き合いいただいた方々にこの場を借りて感謝を申し上げたい。ありがとうございました。2009年にはまた新しい出会いが待っている。その出会いが始まれば、そのまたいつか、別れが待っている。しかし、それは、美との出合いでもあり、その繰り返しが人生なんだろう。この先、そんな出合いが何度来るかはわからないが、私や読者の皆さまにK氏との再会が訪れることを今は願いたい。

tocotoco読者の皆さま、そして、関係者の皆さま、ありがとうございました。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年12月26日号(vol.180)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-12-26 21:52 | Kamakiri no ashi

vol.144/あと何回、反省を繰り返すのか<Takaki Matsumura>

「四、五十年前の説」
 歴史だとか研究が続いてことは必ず100パーセント正しいということはない。そんなことは分かっているので、私が義務教育で学んだことに間違った、もしくは、古い情報というのはあるだろう。しかし、現在も議論されないといけない、または、知っとかないといけないことは教えて欲しい。
f0055491_2359268.jpg と言うのも、今日、はじめて私が学んだことが古い説だったということを知ったからだ。どういうことかと言うと、私が学んできた「部落差別」の根本は、江戸時代にあったということなのだが、実のところそれは古い説で、四、五十年前のものだったらしいのだ。今、学者さんなどの中で良く知られているのは、鎌倉とか室町時代にその根本はあったということなのだ。つまり、ものすごくおおざっぱに言えば、おかみが決めた制度によって、庶民の気持ちなどを統制したと思っていたことが違ったらしい。
 何なんでしょう、これ。知らなかった自分も恥ずかしかったのですが、私はまだ30歳過ぎたところで小学生時代と言えば、20年くらい前なんですけど古い説を学んでいたかと思うと…。しかも、現在も考えていかないといけないのにも関わらず、そもそも間違ってました…では、シャレにもならない。
 無知識な私の中にはこんな感じでよく分かってないことって、まだまだ他にもあるんだろうなぁ。これからあと何回、こんなことを思って、反省を繰り返すのか…。これって何なんでしょうねぇ。
「その質問?」
 大阪の府知事は弱冠38歳の青年である。といっても、もちろん私よりは年上であり、知名度も当然ながら上である。はっきりとものをいう姿勢は大阪府民から絶大な支持を得ている。そういう姿がたびたびメディアで取り出さされるので、当然、脅迫などは多いんだろうなぁと推測していたが、ここのところそれが非常に多いらしい。
 このことが発端となり、公用車をなるべく使わせて欲しい、全部が全部、自腹で払うのは無理だから、なるべく公用車でいかせて欲しいというお願いを彼は最近だした。それに対して、定例の記者会見でとある記者は、その目的、そして、どういった場合に使うのかを明確にしたかったらしく、細かく聞いていた。
 大阪府はとんでもない借金を抱えており、とにかく、支出を1円でも減らさなければいけないという状況にあるし、昨今の無駄遣いにみんな腹を立てている、もちろん、公の人だし支払いは税金からということになるので、この記者の質問となるんだろうが、そもそも、彼が危険な目にあってはいけないのだ。
 彼には、馬車馬のように働いてもらわないといけない。なんだかよく分からない人間に危害を加えられたり、万が一殺害なんてされようものなら、それこそ、大阪府民は何やってるんだということだ。自分たちが選んで、思いっきり指示までしている人を、守りきることもできなかった、なんてことになったら…。
 無駄に使われていないかどうかをきちんとチェックはしないといけないし、決まりを守ってもらうこともしないといけない。しかし、自分たちの指示する人間を守る義務も当然、府民にはある。
 このタイミングで、事務的な線引きの質問って…、どうだったんでしょうねぇ。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年11月28日号(vol.179)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-11-24 23:59 | Kamakiri no ashi

vol.143/西洋と極東の島国に共通する数字<Takaki Matsumura>

「かわいそうなヒロシ」
 ある日の帰り道、大通りで2人の女の子が、なにやら話をしながら歩いていた。私は、自転車置き場に向かいながら、2人の声が大きかったこともあり、彼女たちの会話に注目していた。f0055491_6301942.jpg
 2人の年齢は、短めのデニムスカート、イラストが描かれたセーターなどの服装から想像するとおそらく20歳前後だった。そんな彼女たちの会話は、恋愛の話。どうやら、ひとりの子が自分の彼氏に着いて相談をしているような様子だった。
「でもな。○○○○やし」
「そやなぁ。○○は、○○やからなぁ」
 どこにでもあるありふれた会話の一部分。そして、そのあと一方の子が「でも、あんた、ヒロシと結婚できる?」と問いかけると。間髪を入れず、「ムリムリムリムリ…」
 年齢的なものや、結婚に対する考え方もあるだろう。しかし、おそらくヒロシの前では、猫なで声のひとつやふたつ使ったことはあるだろうに、何の迷いもなく、しかも「ムリ」の4乗である。その後、彼女たちがどんな風に会話を転がしていったのかは分からないが、私はヒロシへの思いでいっぱいになり、全く知らない赤の他人にも関わらず、頑張れと応援したくなってしまった。
「想像力」
 日頃、優しさの足りない人は想像力に欠けている私は思っている。「ああしてあげれば…」「こうしてあげれば…」など、他人の行動に対して、予測的ではあるけれども想像できることは沢山ある。しかし、それが出来ないということも理解できる。
 例えば、怒りの感情でそれどころでない場合や、そもそも想像することを訓練されていないなどが理由としてあげられるだろう。前者は、我慢強くなってもらうとして、問題は、後者だ。こちらはある程度の年月もかかるし、普通にすれば、そんなに簡単でないことは明らかだ。しかし、ある方法を私は最近発見した。といっても、非常に愚かな方法かも知れない。というか、これを読んでいただいている人たちの9割以上の人たちから、叱責を買う、もしくは、あきれられるだろう。
 その方法とは、「想像力の訓練には、官能小説を読め」ということだ。欲求に対して非常に直接的であり、男だけかも知れないが、そのことに対する想像力というものは、異常なほど強く、そして、研ぎ澄まされているだろう。そのステップはいとも簡単にクリアできるはずである。そうすれば、自分頭の中で、言葉や文章という情報からある世界を想像することがいかに容易であるか気付くはずだ。なにせ、これまた男の場合しか分からないが、実感として体感できる場合もあるのだから。
 これを他人の言葉や行動に当てはめ直すだけである。応用編である。
 ただし、この方法は決して他言しない方がいいだろう。バカの目で見られたり、失笑されるのに耐えうる根性がなければ、想像できないくらいの体験をすることに違いないはずなので。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年11月14日号(vol.178)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-11-13 06:30 | Kamakiri no ashi

vol.142/西洋と極東の島国に共通する数字<Takaki Matsumura>

f0055491_9413469.jpg「13」
 京都には愛宕山という山がある。この山には愛宕神社と呼ばれる神社があり、明智光秀が本能寺の変の直前に参拝したことでも知られている。歴史的には、こういったことで有名なのだが、この山にはほかにも、空也、法然、九条兼実などのゆかりの寺・月輪寺がある。今では、檀家はゼロ、さらに、継ぐ人間もおらず、このままいくと将来的には無くなってしまうのではないかという懸念もある。
 そんな寺を守るのは、1人の僧。その人は、修復の為に寄付をその道を通るハイカーに求めなんとかお金を貯めていた。ハイカーに求めるお金はもちろん高額ではないひとりにつき200円程度のものである。その代わりにさまざまな話しをしてくれる。昔の女の子は、7歳で結婚相手が決まり、13歳で十三参りをすませると、決して親元に戻ってはならないこと、その十三参りは京都の渡月橋が舞台であったこと、さらに言うと、その下を流れる川が、三途の川で、だから、永遠の別れを意味していたなど、一般的にいう十三参りとの話しの違いが、山奥に住む1人の僧から語られた。
 13という数字には、晴れやかな意味というよりも、むしろ陰の部分が多いことに驚いた。ここで、俗世にどっぷりと浸かっている私が、思ったことは、やはり「ジェイソン」の存在だ。彼が、登場するのは13日の金曜日。西洋と極東の島国に共通する13という数字。偶然なのか、はたまた、必然なのか。
 西洋では、13を忌み数としているようだが、ここ日本でも実は忌み数ではないにせよ陰の要素を含んでいるのは、興味深い。
 そういえば、裏稼業で生計を立てる13にまつわる人もいたっけなぁ。
「便器にはみだし」
 ずいぶん前から疑問に思っていることがある。その前に、食事をとりながらこの記事を読んでいる人がいたら、私の文章は、取りあえず、ご飯を食べ終わった数時間後にして下さい。くだらなさと汚さで気分を害される可能性があるのでご注意を。
 何の話かと言うと、個室便所の和式便器にはみ出したアレだ。たまーに見かけるアレは何だとつくづく不思議になる。誰がやっているのかももちろんのことだが、何故、そんな事態が起こるのかだ。どういう座り込みをすれば、そんなうまい具合にいってしまうのか、不思議で仕方がない。しかも目撃する時はたいてい、豪快にそれている。敬遠かと思うくらいにそれている。
 その光景を想像してみると、ものすごく我慢をしていて、もうズボンをおろしたら、即座に出てしまったくらいなのではないだろうか。そういう人に対しては、やはり同情せずにはおれない。しかし、そんな一般的に考えれば恥ずかしい行為をしてしまった人なのにも関わらず、それを隠さず、出て行ってしまうのは何故だろう? 目撃される可能性があるにも関わらず、それをそのままにして出て行く勇気が、あるのなら備え付けのトイレットペーパーで処理することなど雑作もないことだと思うのだが、残っているアレからは、そんな痕跡は見受けられない。
 トイレというのは、見られたくないという人の羞恥心から、個室が増えてきたと思うのだが…。そういうプレイを楽しんでいる人が、いるのかと本気で馬鹿な私は考えずにはおれない。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年10月31日号(vol.177)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-10-31 09:43 | Kamakiri no ashi

vol.141/間違った知識<Takaki Matsumura>

「なまはげ」
 先日、友人から「なまはげはとても礼儀正しい存在だ」という話を聞いた。あの大晦日に「泣ぐごはいねガー」などと言いながら、家にずかずか上がり込むイメージのあったなまはげが礼儀正しいとは、かなり意外だったし、まず、そんなことは信じられなかった。
 しかし、彼ら(彼らと呼ぶのが正しいのかどうかは分からないが)は、人に連れられやってきて、ノックをし、家に上がっても良いかどうか確認をしてから入るそうだ。そして、家の中のいろんなところをたたいて廻るのは、決して破壊行為ではなく、むしろその逆で災いが起こらないようにしているらしいのだ。
 これには正直驚いた。大晦日、もしくは、新年のニュースで見る光景では、決してそんなことは伝わってこない。思い切り曲がった知識が私の中に埋め込まれていたことにショックを受けた。しかも、東北地方出身でもなければ、行ったこともない私にとって、この友人の話しがなければ、墓までその間違った思いを持っていったことだろう。
 こういった断片的な情報によって、間違った知識を持ってしまったもの、それに、勘違いを含めると私はどれだけ、馬鹿なまま墓に入るのか分からない。またしても、自分の目で見る、または、断片的ではなく、話を聞くと言うことが大事なんだと思わされたことだった。f0055491_7271065.jpg
「バナナがない」
 今、八百屋や果物屋からバナナが消えているらしい。全然知らなかったのだが、結構前から朝バナナダイエットなどという新種のダイエット方が話題となり、午前中には売り切れるらしい。詳しくどのようなダイエットなのかは知らないが、なんでも、朝にバナナ1本とコップ一杯の水を取るらしい。そのとき、よく噛んでというのが重要なようだ。
 私は、このバナナが売れているというのを聞いて、農薬漬けのバナナの話しを思い出した。現状のバナナが統べてそうだとは言い切れないし、輸入品には、必ず農薬が入っている。ということは、自給率40パーセントのこの国で、薬を使わず体にいいことをしようとしても自給自足をする以外は、到底無理なのだということは、ずいぶん前から分かっていたことだ。この事実を知った上で、買っているとすれば、一過性のブームになるのはあまり良いともいえないし、商店をする人たちにとっては、あまり喜ばしいことでもないだろうが、まぁ、良いんじゃないと思う。
 しかし、分からないでやっているとすれば…。
 だいたいダイエットというものは、自分の健康を維持する為に適正なカロリーを接種し、バランスよい食事の中で動きも軽やかになるし、健康にもなる。というような状態でなければ意味がない。ダイエットをして不健康になりました、では、悲しいばかりである。
 もう一度書くが、最近のバナナがどういう状態なのかは分からない。しかし、中国のあの牛乳のようにならないように気をつけたいものだ。ブーム的に飛びついている人が多そうな感じが、懐疑的に思わせる。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年10月17日号(vol.176)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-10-18 07:27 | Kamakiri no ashi

vol.140/この先ヤバくなるから倒産?<Takaki Matsumura>

「機能不全」
 先日、宮崎勤もと死刑囚が、執行されていることをとある本を読んでいて思い出した。1980年代の終わりに、世の中を震撼させ、そしてまた、オタクという言葉をさまざまな層に対してネガティヴに広めた彼が、2008年にこの世を去った。そのとある本には、彼の拘置所での様子などが書かれていた。しかしながら、その様子からは同情の余地はなく、さらに言うと、死刑という判決を下したが、これでは不十分だと遺族にとってみれば、やりきれなくなる姿だった。
 もちろん、私は彼に接見したこともなければ、被害者の遺族になったこともない。なりたくもないが、加害者の遺族にもなったことがない。このような、関わりをなくす、もしくは、減らす予防として「法律」「刑罰」というものがあるはずなのだが、このような特異な人間に対しては全く機能をしていない。悲惨なことに、茨城県土浦市の通り魔事件では、「自殺は怖くて出来ないので、死刑にして欲しくて起こした」なんて、逆に利用されてしまった。抑止力として全く効果を上げていない。誰も被害者になりたくなければ、その遺族になりたいとも望んでいないはずだ。と考えるなら、本来は遺族感情に考慮するための刑ではなく、予防するための重罰なのだ。f0055491_6151518.jpg
 つまり、抑止力として効果のない刑よりも、どのように予防するのかを別にして考えて、なにか出さなければいけない。私が考えるのは、彼らのような猟奇的殺人を犯してしまう、また、人を殺すことが良くないことだと思っていない人間は、教育であったり、家庭環境と言うよりも以前に、人間としての機能が欠落しているとしか思えない。そもそも、「人を殺しては行けませんよ。命は大切にしましょうね」と教えられないと出来ないような動物に繁栄はなかっただろう。このようなことはいちいち教えられることでもないのだ。もし、教えないといけないことがあるとすれば、それはどこか異常なのである。つまり、今がその状況なのかも知れない。しかし、異常なのがどこなのか分からないのに、どのように教える気なのか。遺族感情を考えると、馬鹿な私には、死刑に取って代わるものを考える力がない。しかし、どこが異常で、どうすれば、あんなことをしてしまうのか分からないまま(もしかしたら分かっているのか?)、とにかく、執行してしまっていいのだろうか。秋葉原の事件しかり、茨城県土浦市の事件しかり、よく分からないことが、どんどんよく分からないを充満させ、その状況は人任せにしてしまっている今の日本人を体現しているような、そんな気がしてならない。
「億ション」
 何年か前から、“億ション”なんて言葉がもてはやされ、さまざまな高層、高級マンションが建てられている。私の家に入るチラシにも、1億を超える値をつけられたマンションの広告が入っている。「誰が買うのだろう」と疑問に思っていたが、売れているんだと思っていた数年前。しかし、相次ぐマンションをメインに展開している不動産会社の倒産を見ていると厳しくなっている状態が分かる。しかも、今後もそれが続きそうなのが、倒産している会社をよく見てみると前年度は黒字なのだ。ということはつまり、この先ヤバくなるからの倒産ということだろう。
 つまり、これはその前の第一波なのではないだろうか。都心部を中心に建てられている億ション。数年後の値段がどのようになっているか、これはかなり楽しみである。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年9月26日号(vol.175)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-09-26 06:14 | Kamakiri no ashi

vol.139/臭いものにフタ<Takaki Matsumura>

「ネガティブ」
「ものは考えよう」とはよく言ったもので、たとえ、うんこを踏んだとしても、“うん”がついたと、プラスに解釈することもできる。そうすれば、たいていのことは嫌でなくなる。
 しかし、この考えが行き過ぎると、「なんでもええやん」となってしまう。楽観的すぎてもいけないようだし、センシィティヴすぎてもだめ、考え方にもバランスが必要で、なかなか人生というのは難しい。

仕事ができない後輩に対して、怒ろうか、怒るまいか 小さじ3杯
秘書課の○○ちゃんからお誘いがあった 大匙1
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 などなど…、自分の生活に合わせて、喜んでいい量、落ち込んだり怒ったりしていい量が、表示されていれば嬉しいけれど、人間として生まれた以上人間のプロだということなのか、料理ができない人に対して出ているようなhow to本は当たり前だが、やはりない。
 つまり、感覚値という非常に不確かなものに委ねなくてはいけない。それがこの世の中ではとても難しい。私にしてもそうだが、すぐに答えや解決策を知ろうとする。感じたり、考えたりする前にまずは、結果があって、そうするには、どの道筋が正しいのかを知ろうとしてしまう。ワクワク感がまるでない。それはもう「吉本新喜劇」的安心感でしかない。そんなことでは、新しい笑い、つまり、感覚値は養われず、バランスが取れない人間になってしまう。
 大人なら、自転車に補助輪はいらないはずである。バランスは漕ぎながらとるものなのだ。そして、ハンドルを握り行きたい方向に進んでいくのだ。そこには信号というルールもある。バランスよく進んでいけば、風が吹いているのを感じるし、人生も楽しい乗りものになるはずなんだけれど…。
「結果論」
「それは結果論だ!」。こんなセリフが持ち上がる時、それはたいていプロセスに問題があり、結果は良くともその道程が悪いとよくないと言われる。私も、結果が良くてもその過程を気にしてしまうほうだが、大分県の教員採用での不正事件に関しては、結果が大事なような気がしてならない。
 この事件は、採用試験の点数を操作し、不正に合格させたというもので、長年この状態は続いていたのだという。教育委員会、または、人事に影響力を持っている人というと、当然本人ではなくその親や親せきということになるだろう。ということは、本人がしたというよりその周りの人々が働きかけたと想像するのが、分かりやすい考え方だと思う。
 しかし、今回、ペナルティを負うのは、当の本人である。もちろん知っていた人間もいるだろうし、本当は合格しなかった人であり、その影響でなれなかった人もいる。そういうことを思うと、恨みをかうのは仕方がないことかもしれない。しかし、少なくとも今回知るまで、自分は実力で先生になったと思っているはずだ。それを、今回、知ったのと同時に、ほぼ解雇のような状態になるようだ。ペナルティの課し方は様々かも知れないが、その前に、不正に教師となった人間たちが子どもたちや現場でどういう評価を受けているのか、それを、この処分を決めた人は知っているのだろうか。またしても、臭いものにふたな対応である。
 なぜそれが臭いのか、それを知らないまま、どんどん先に進むから、またすぐにどこぞでおんなじにおいがしてくるのに…。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年9月12日号(vol.174)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-09-09 10:20 | Kamakiri no ashi

vol.138/注目に値する面白さ<Takaki Matsumura>

「柔道」
 北京オリンピックが開催され、柔道で日本は7つのメダルを獲得した。200近くの国で柔道という競技は広まり、今大会でも証明されているように、そのスタイルというのは、国それぞれになっている。アクロバティックな柔道がその典型と言えるのかもしれない。このようにさまざまな選手が一堂に会し、技を競い合うのがオリンピックで、普段、柔道に興味がない人の目にも触れる意味でも注目度は高い。これまで私が柔道のことを書いたときには必ず審判について書いてきた。「審判のレベルが低い」と…。今回も「判定甘いな」と思う試合はいくつかあった。しかし、これまで見た中でもかなりレベルは上がっていたのではないかと思う。ただ、ようやくまともに近づいてきたかなというレベルであるのは間違いないが…。
 そのレベルの低い審判団をもろともしない柔道を見せてくれたのが、韓国の崔敏浩(チェ・ホンミ)。ややパワー柔道かと思わせる節が昔から見え隠れしていたが、今大会での彼は気持ちいいくらい強かった。2回戦(だったと思う)で見せた両襟をつかんでの背負い投げは、バネもへったくれもない技だったが、それでも1本勝ちを決めた。涼しい顔して勝ってしまう姿は、「ホワッツマイケル」を描いた小林まことのマンガ「柔道部物語」に出てくる西野新二を思い起こさせた。とにかく、これこそ1本と思える投げを彼は放ったのだ。背中がついたのかついていないのかよく分からない投げではない、審判が見てもあまり柔道に精通していない人が見ても“綺麗”と思える投げを放った。北斗の拳のユダ的な表現をすれば、「美しい」の一言である。
 柔道のような分かりにくいと思われる競技が、数多くの国と地域で行われているのは、やなりあの美しさに魅せられるからだろうか。
f0055491_651874.jpg「阪奈和」
 関西圏以外の方には、この「阪奈和」というものが何を意味しているのかあまりよく分からなかったりするかもしれないが、これは、大阪・奈良・和歌山という3つの府県をくっつけたものだ。関西圏の人間にとってもあまりなじみのない言葉だろうし、もしかすると意味はわかるけれども初めて目にするかもしれない。つまり、それくらい稀で、使わないものなのだ。
 しかし、それが今、非常に注目されうる要素をもっている。なぜなら、ないからだ。ないというのは、雑誌もなければインターネットでも情報があまり得られない。京阪神を伝える雑誌は多いし、東京のメディアでも京都のことはもう頭が悪いんじゃないかと思うくらい特集を組んだりする。しかし、前述のエリアはほとんど見向きもされない。紹介されたとしても、奈良だったら文化遺産、和歌山だったら熊野古道に白浜の温泉といったところで、いわゆる観光名所的な紹介のされ方だ。しかし、この2県の良さはここ以外にある。それは、都会から移り住んだ人たちと地元の融合がもたらす店や商品。奈良の生駒には、わざわざ山道を登って食べに行きたくなる蕎麦屋やピザ屋がある。そして、三重県との県境付近には、日本で紅茶や野菜作りに励む27歳の若者がいる。和歌山にも、良い水を求めてチャイ作りのために大阪から店を移転させた人物がいる。都会がダメとは思わない。しかし、都会じゃないとダメという時代は確実に終わりを迎えている。昔とは確実に、生活圏内も広がっているはずだし、遠くの人間とコミュニケーションをとるのも簡単だ。
 そんな世の中が、阪奈和を面白くしている。都会と違う癒しなんて安っぽい言葉ではない。大阪という都市社会と、奈良、和歌山という自然が多く残る社会の融合が、新しいものを生みつつある。関西の都市とその周辺の関係性は、注目に値する面白さだ。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年8月29日号(vol.173)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-08-28 06:06 | Kamakiri no ashi

vol.137/冷静に考えればくだらないな<Takaki Matsumura>

「アグリカルチャー」
 私のイナカは、奈良県吉野郡川上村高原という場所だ。親の故郷によって、都会だったり、それこそ過疎化が進行している村であったり、イナカの場所はまちまちである。
 まだまだ私が幼い頃、イナカに行くのがすごく好きだった。祖父や祖母に会えるから好きだったというのが、一番の理由で、場所はおそらく二の次だったと思う。しかし、今は、あの場所が好きだ。コンビニもなく、スーパーもなく自分で何かを育てないと、生きてはいけない現代的な価値観では不便でしょうがない土地、川上村高原。そんな土地にも関わらず、想像力をかきたてられる。もちろんそれは、お金という指標に基づいた都会的な想像力なんだろうと思う。しかし、川上村は現実的な壁を取り除き、想像させてくれる。f0055491_255067.jpg
 それはただの妄想か、と疑うところもあるが、その妄想が現実に昇華させられるだけの力がその場所にはあるのではないかと、最近強く思う。きっと都会が飽和した社会になり、今行き詰っているからだろう。そして、都会では生産されているように見えて、実は消費が繰り返されているだけであることも、この土地からは見て取れる。
 何もない分、自分のことは自分でしないといけない。そんな当たり前のことを身をもって知らせてくれるイナカをもっている人は、きっと幸せなんだと思う。
「甘酸っぱい距離」
 今、長澤まさみがカルピスのCMで、高校生のカップルの横で「甘酸っぱい距離」という言葉を発している。もちろんこれは、距離が甘酸っぱいわけではなく二人の関係を指している。しかし、ここではその距離というのがあるとすればどのくらいなのかを考えてみたい。
 まず、甘い距離というのは、どのくらいのことだろう。人によるということは大前提だろうが、密着している距離は、甘いと言っていいだろう。もう少し言うと相手の臭いなどがはっきりと認識できる距離は、甘い距離だろう。
 では逆に酸っぱい距離というのはどのくらいだろう。それは、もう全然見えない距離も解釈によっては含まれるだろうが、恋愛を軸に考えると、それは成立しないので無視していいだろう。では、認識できる距離で酸っぱいというと、例えば、合コンなどで斜め前の横あたりに座っている距離間ではないだろうか。会話はできるし、相手の声も届くが中心ではない。意識もできるし、逆に意識しないこともできる。ここで、どちらかが意識していると、それはまさに酸っぱい状況と言うことができるだろう。
 となれば、甘酸っぱい距離というのは、臭いが届いている時もあれば、届いていない時もありそうで、それでいて少し意識の中に入ってくる距離合コンでいえば、斜め前程度、距離にするとパーソナルスペースに入りそうな半径1.5メートルくらいの距離程度なのではないだろうか。
 こんな距離を計ってみたところでなんの意味ももたないだろうが、恋愛中の男女にとっては、こんなどうでもいいことが重要となる。冷静に考えればくだらないな、なんて思ってしまうこともあるがじつのところさまざまなことに同じことが言えるような気がする。なんたって、嫌なことでも結局、思い出になったり、時間がかかっても、結局、心の中でケリをつけているのだから。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年8月15日号(vol.172)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-08-12 02:06 | Kamakiri no ashi

vol.136/すべてを知ることは不可能である<Takaki Matsumura>

「掃除好き」
 掃除が非常に上手い人や掃除好きな人というのが世の中にはいる。仕事場の机が、整っていたり、ファイリングが綺麗になされていたり。そういう人を見る度に羨ましくなる。私の勝手な思いこみかも知れないが、そういう整理整頓などが上手い人は、きっと捨て上手なんだと思っている。f0055491_3364617.jpg
 たいていの場合、私の机にあるモノは不必要になる、もしくはなるであろうモノであふれかえっている。そもそも、新しく置かれたモノでも多くの他人から見れば、「それ必要なの?」と疑問に思われるような代物が多いんじゃないかと思う。何故そう思うかは、年末にやってくる大掃除で、何度も「ずっと取っておいたけれども結局使わなかったなぁ」なんて思うことがほとんどだからだ。
 恋愛にしてももしかしたら同じことが言えるんじゃないかと、ふと思った。私は女性との想い出が捨てられない。実際に写真などが捨てられないと言うことではなく、心の中から、いわゆる記憶として残っているという次元ではなく、「いいなぁ」なんて思う感覚が少なからずどこかに残っている。それは、ほとんどの女性に捨てられ続けてきたからかも知れない。未練がましく思っていると否定されればそれまでで、気持ち悪さを感じる女性もいるだろう。しかし、私の机の上同様、そんなに簡単に片付くものでもない。
 ごちゃごちゃしてしまうときにはやはり、掃除好きに憧れを抱いてしまう。
「類型化」
 日本人という人種は、極めて類型化の好きな国民だと思うことがしばしばある。管理職と呼ばれる人が、毎日、管理を行いやすくするために類型化を行っているが、それ以外にも若者の会話の中で「○○系」という言葉をよく耳にするし、性格を判断するときに女性たちは血液型を指標とすることが多い。最近では、ファーの帽子を被って大きなヘッドフォンをしている子を歌手の青山テルマの姿を真似ているとして、テルマーなんて呼んでいたりもする。それは一応単一民族国家の中で生まれた共同体意識なのかなんなのか、難しいところは分からないが、とにかく多い。
 囲いを作りたがるのは端的に説明したいからかも知れないが、それによって個が見えなくなってしまうこともある。例えば、サッカーの「海外組」や野球の「日本人メジャーリーガー」という言葉がそうだ。これは海外のサッカーリーグやメジャーリーグでプレーをする日本人に対して、総称として使われる囲い。
 確かに説明を簡単にするためには便利である。しかし、結局のところ、どのチームでどんな活躍を個々がしているというところまで興味がない人は知らないし、「なんか海外で活躍しているすごい人」などという曖昧な評価になってしまう。これが、総称などがなかったらどうだろう。ヤンキースの松井秀喜選手、レッドソックスの松坂大輔選手、マリナーズのイチロー選手などは、あってもなくても活躍が報道されているし、野球というスポーツの特性上、テレビ中継の間でも1人がアップで映る時間が長い分、何となくその人の顔もチーム名も覚えれる可能性が高い。しかし、サッカーとなると「海外組」のひと言でくくられてしまうと、好きな人以外はよく分からない、さらに、誰がどのチームに所属しているのかすらも見えてこないという状況を生み出している。
 「何となくすごいらしい」というのが、蔓延してしまって囲いだけで語ってしまうという本末転倒なことになっている。顔が違うように、それぞれ違う。ひとつひとつ見ないことには、結局のところ面白さも分からない。それでは時間が足りないと思うのであれば、考え方を変えればいい。すべてを知ることは不可能である。時間には限りがあるのだと、欲望を制限すればいい。
 まぁ、そうは言っても無理な気もするが…。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
2008年7月25日号(vol.171)掲載
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by tocotoco_ny | 2008-07-25 03:37 | Kamakiri no ashi