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vol.116/特集「Capote」

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■「部屋に置き去りにされて泣いている自分」これが彼の最初の記憶
 映画「Capote」は、著名な小説家であるトルーマン・カポーティが、彼の代表作となる「冷血/In Cold Blood」(1966)を執筆するにあたり、そのリサーチのために惨殺した2人の殺人犯と面会し、計らずも迎える人生の転機を描いた作品である。ゲイでパーティー好き、人一倍おしゃれに気を遣うが、背は低くて小太りタイプ。気難しくて皮肉っぽくオネエ言葉の甲高い声……。当時も今も、ニューヨーカーならではの艶やかなゲイっぷりが画面いっぱいに展開する。同映画でカポーティを演じるフィリップ・シーモア・ホフマンからは、そんな印象を得た。「輝かしい破壊の天使」「麻薬常用者にしてアル中の天才」といったキャッチフレーズが常につきまとうスキャンダラスな男、トールマン・ガルシア・カポーティ(Truman Garcia Capote)。酒と薬物に溺れ、数々の奇行を残した彼の生涯を探ってみた——。
■同性愛を人知れず悩んだ孤独な少年
 カポーティは1924年9月30日、ルイジアナ州ニューオーリンズで父アーチ・パーソンズ、母リリー・メイ・フォークの息子、トルーマン・ストレックファス・パーソンズとして生まれた。両親は彼が4歳の時に離婚し、彼はルイジアナ、ミシシッピー、アラバマなど南部各地の遠縁の家を転々として育っている。引き取られた親戚の中には高齢者同士の孤立世帯や精神障害をもつ伯母がいたりと、子供ながらも考えさせられる生育環境であったに違いない。また彼自身も同性愛で人知れず悩み、孤独な少年時代を過ごしたという。vol.116/特集「Capote」_f0055491_4562291.jpg 
 彼の母は美しく野心家で、男好きであったと言われている。8歳の時、母親が新しい夫ジョゼフ・ガルシア・カポーティと再婚し、1935年、11歳で彼はニューヨークに呼び寄せられトールマン・ガルシア・カポーティを名乗ることになる。彼は市内のキリスト系の学校(Trinity School & St. John's Academy)に通うが、彼の女の子っぽい仕草を嫌悪した母は男らしくさせようとコネチカット州グリニッジにある全寮制の学校へ入れる。そこで彼は性的ないたずらを受けたとされる。同校の他にも、ボードメンバーがゴールドマンサックスの銀行家の家族というプライベートスクール(Dwight School)にも通っている。そんな母も後年、自殺している。
vol.116/特集「Capote」_f0055491_4575828.jpg 彼は17歳で高校を中退後、1941年から45年までの4年間、奇妙な装い(スタイル)が気に入られて雑誌「ニューヨーカー/New Yorker」のスタッフとなるが、主な仕事は雑用でコピー取りなどをしていたと伝えられている。vol.116/特集「Capote」_f0055491_4585628.jpg
 20代前半には短編「ミアリム/Miriam」(1944)、「最後のドアを閉めよう/Shut a Final Door」(1948)で2年連続O・ヘンリー賞を受賞するなど、若き天才作家として着々と注目を浴び始めたのもこの頃である。この「ミアリム」と「銀の壜/Jug of Silver」は1945年に、21歳の若さでファッション雑誌の「マドモアゼル/Mademoiselle」に掲載されたもので、これらの他にも同年「ぼくにだって言いぶんがある/My Side of the Matter」などの短編を「ハーパーズ・バザール/Harper's Bazaar」に発表している。
vol.116/特集「Capote」_f0055491_552959.jpg 初期の短編集は「夜の樹/A Tree of Night and other stories」(1949)にすべて収められ、その新鮮な文体、緻密な構成は彼が希代のストーリー・テラーであることを示している。またカポーティの出世作となったのは、初めて手掛けた長編小説「遠い声、遠い部屋/Other Voices, Other Rooms」(1948)で、南部が舞台となっていることから、当初、ゴシック小説(怪奇小説)の伝説を受け継ぐ南部作家といわれたようだ。「遠い声、遠い部屋」の裏表紙に肖像写真としては意表をつく妖しげな雰囲気を漂わせた彼の写真(右の本の写真/同じ肖像写真で別カット分は今号表紙制作にも使用した元写真)が掲載され、さらに話題を呼んだらしい。
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■作品の主人公には孤独な影が付きまとう
 オードリー・ヘップバーン主演の映画で有名になった「ティファニーで朝食を/Breakfast at Tiffany's」(1958)は、ニューヨークの町を背景に、明るく自由に生きる19歳の女性ホリー・ゴライトリーを洗練された文章で描きあげた1本だ。それまでの作品イメージをがらりと変え、華やかな社交生活を楽しむホリーを面白可笑しく描いてはいるものの、実はホリーも孤児で不幸な幼少時代の影を背負っているという設定。彼の作品の主人公には、やはり孤独の影がついてまわる。vol.116/特集「Capote」_f0055491_526528.jpg
「ティファニー」以降、久しく沈黙を守っていた彼は1965年「冷血」を発表する。同作品は当初、彼が勤めていたニューヨーカー誌に連載され、66年、単行本化されている。同著は「ノンフィクション・ノベル」という新しいジャンルを切り開いた作品で、当時の「ポストモダニズム=反リアリズム」や、報道記者の主観を強く要求する「ニュー・ジャーナリズム」が台頭する中、新しい小説形式を考え出したとされている。冷血は約50か国で出版され、アメリカだけでも初版500万部を売り上げる大ベストセラーとなった。

■実践した「ノンフィクション・ノベル」
 さて、この冷血こそが今回映画化され、話題となった作品だ。そもそもこの小説は、1959年カンサス州の田舎町ホルコムで起こった強盗殺人事件を題材に、ペリーとディックという2人の犯人と、殺害された裕福な農場主クラッター一家4人の生涯に焦点をしぼり、事件の経過をドキュメンタリー・リアリズムで描いてある。
 この2人組の犯人が1959年12月に逮捕されてから、65年4月、死刑に処せられるまでの6年間、現地調査はもちろん、収監中の犯人に何度も面談するなど、取材範囲は広がり、膨大な資料となったようだ。またドキュメンタリーでありながら興味ある小説に仕立ててあるのは、不幸な生育環境で育った犯人の1人ペリー・スミスに自身を重ね合わせ、共感を抱く彼の視点と筆力が成した結果だろう。ペリーの繊細さと残虐性の両面を併せ持つ特異な内面を、彼は客観性を保ちながら、見事に描写することに成功している。フィクションを一切排除する徹底したリアリズムでありながら、小説の技法によって事実を整理し構成する。これが彼が名付けて実践した「ノンフィクション・ノベル」である。以降、ノンフィクション・ノベルは話題となり、文学者だけでなくジャーナリストにも影響を与え、用語として定着した。
 映画で、カポーティと同行取材する親友として登場する女流作家のネル・ハーパー・リーは、実際、彼がアラバマに引き取られていた時、隣に住んでいた幼なじみで、彼女がピューリッツアー賞を受賞した「アラバマ物語/To Kill A Mockingbird」(1961)に登場するディルは、カポーティがモデルである。ちなみに映画のシーンで、ピューリッツアー賞を受賞したリーを彼は子供のように羨ましがり、やっかむところが何ともリアルだ。

■歴史に残る20世紀最大の舞踏会開催
 ここまでが、彼の作品に関する大まかな記述だが、彼はゴシップ的なことでも話題の多い作家だった。「冷血」の成功で得た名声と富で、華麗なる偽悪者としてデカダンスを貫いた彼は、20世紀最大のパーティーといわれる仮面舞踏会「Black and White」を1969年11月28日、ニューヨークのプラザ・ホテルで開いている。vol.116/特集「Capote」_f0055491_75239.jpgこのパーティーは当時のワシントン・ポスト社長のキャサリン・グラハム氏のために、全額彼の負担で540人の名士を招いたという歴史に残る宴である。この他、講演会やテレビにも進んで出演するものの、かなりのアルコール中毒で、番組中、支離滅裂になり途中で中止になることもしばしばだったという。また、その頃の恋人(男性)を告訴したり、作家ゴア・ヴィダールから中傷罪で訴えられるなど、数々の奇行を残し、その都度ジャーナリズムの格好のエサにもなっている。
 また彼は1957年、日本へも足を運んでいる。日本を舞台にしたマーロン・ブランド主演の映画「サヨナラ」(1957)の取材旅行で、日本滞在中のブランドをインタビューする目的で写真家のセシル・ピートンと一緒に東京は固より京都や奈良も訪れている。この日本取材旅行記は「The Duke in His Domain」という題で雑誌「ニューヨーカー」に掲載され、現在も同誌のネット上で、その寄稿を読むことができる(*参照)。そこには、彼の目に写った不思議の国ニッポンが描かれてあり、食べ物のほか畳を含む調度品や女性の仕草など、こと細かく記載され、中でも日本女性が「クスクス笑う」のが気になったようだ。また、この来日中、彼は三島由紀夫にも会っている。三島由紀夫がゲイであったかどうかは不明だが、彼と三島の間には何か通じるものがあったようだ。後年、彼は三島のことを「心の通じ合う数少ない作家」と称し、彼の自殺に驚き悲しんだと語っている。
vol.116/特集「Capote」_f0055491_5745100.jpg 幼き頃の引っ込み思案が一転し目立ちたがり屋となった彼は、コメディ映画「名探偵登場/Murder by Death」(1976)にも役者として出演している。同作品はブロードウェーの名脚本家ニール・サイモンが書き下ろしたものだが、彼も脚本家として「回転/The Innocents」(1961)、「悪魔をやっつけろ/Beat the Devil」(1953)の2本の映画を残している。

■そのうち空を飛べると思う。バディ……。
 名声を得てから華やかな人生を辿った彼だが、自殺同然ともいわれる彼の最期を見守ったのは、女友だちのジョアンナ・カーソン(Joanne Carson/深夜番組「トゥナイト・ショー」のホストを30年間務めた有名なコメディアン、ジョニー・カーソンの元妻)だ。社交界から見放され、多くの友人が彼の下を去った後も彼女だけは彼を愛したと言われている。結局、彼の親友は男性ではなく、常に女性だったことも皮肉である。
 1984年8月25日、ロサンゼルスにある彼女の家で心臓発作を起こした彼は「もう、いいんだ。救急車も医者も点滴もいらない。ボクを本当に愛してるなら、このまま逝かせてくれ」と、救急車を呼ぼうとする彼女を止めたという。vol.116/特集「Capote」_f0055491_5252528.jpg後に彼女は、カポーティの最期の言葉は「バディ」だったと公表している。「バディ……」。それは少年時代の彼のニックネームだった。幼少時代、引き取られた先で伯母ミス・スックと出会い、生まれて始めて深い愛情を得た彼は「草の竪琴/The Grass Harp」(1951)にも、その内容を明るく牧歌的な物語として綴っている。そのミス・スックが彼をそう呼んだ。
 彼の最後の作品「あるクリスマス/One Christmas」(1982)は、憎んでいた実父を許し、その思いを込めたものである。同作品を発表する前年、彼は父を亡くしている。父についてそれまで一度も書いた事がなかった彼が同書の中で「父さん元気ですか、ボクは元気です。ボクは一生懸命ペダルを漕ぐ練習をしているので、そのうち空を飛べると思う。だからよく空をみていてね。愛してます。バディ」としたためている。バディ……、 死の直前、あと1か月で60歳の誕生日を迎える頃、カポーティはそっと自分の名をつぶやいて、その波瀾に満ちた生涯を静かに終えている——。

*カポーティが書いた「マーロン・ブランド」の来日インタビュー記録
「The Duke in His Domain」by Truman Capote(Posted 2004-07-05)
*但し、開くまでかなり時間がかかります(注:もちろん英文です)*
http://www.newyorker.com/archive/content/?040712fr_archive02
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*映画「Capote」のオフィシャルサイト
http://www.sonyclassics.com/capote/
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2006年2月15日号(vol.116)掲載
by tocotoco_ny | 2006-02-09 03:35 | 2006年1〜12月号
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