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vol.120/最悪—6<黒須田 流>

(前号までのあらすじ:信治の自室のトイレが詰まり、排泄物が床に溢れ出た。修理も掃除も出来ないまま、約束を果たすために雀荘へ向かった。そして、そこでツキにツキまくった。大負けした岩山は信治のトイレを掃除する条件でナキ(延長)を申し入れたのだった——。)

 「えっ、ボス、今なんて言いました?」
 信治には、岩山の言葉がしっかりと聞こえていたが、もう一度、確かめるように訊いた。
 「だから、トイレの掃除を手伝えばいいんだろう」
 岩山が、面倒くさそうに応えた。
 信治は、「やった!これであのうんこ塗れのトイレ掃除から開放される」と、胸の内でニヤリとした。しかし、それだけでは満足しなかった。今は信治にとって圧倒的に有利な状況である。もうひと押しできると踏んだ信治は、
 「いや、手伝うだけなら、もうやめて帰りますよ。今から一人で片付けますから。でもまあ、ボスが全部やってくれる、って言うんなら、考えてもいいですけどね」と、さらに条件を突き付けた。
 すでに毒を喰らわば状態の岩山の頭の中には、あと10回やることだけしかない。
 「ああ、わかった、わかった。トイレ掃除でも何でもやってやるよ。なあ、アカちゃん」と、赤沢に同意を求めた。
 いきなり、自分に話しがフラれた赤沢は、
 「えーっ、私ですかぁ」と、驚きながら、チラッと、信治の顔を見た。
 赤沢もかなりのマイナスなので、延長戦は望むところである。しかし、それよりなにより赤沢は麻雀そのもが好きなのである。
 客が十人も入れば満席になる小さな寿司屋を営んでいる赤沢は、岩山や荒木、そして信治のように、気が向けばいつでも打てるヒマージンではないし、「ヨ−コ」という名の妻もいない。唯一の趣味とも言える「麻雀」ができるのは店が休みの日に限られる。だから、勝ち負けよりも、少しでも長く麻雀が打てることが彼にとっては悦びなのだ。もちろん、負けて嬉しいはずはないのだが、たとえ、大負けしていても、ふてくされたり、打ち方が荒くなったりすることはない。常に穏やかで、自己主張することもなく、周囲に気をつかう。
 けれど、やさしいとか人柄がよいとか、一般社会で肯定的に受け取られている事柄が、バクチでも役立つとは限らない。むしろ、そうしたものがマイナス要因となったりもする。狡く、臆病で、意地の悪い人間の方がバクチには向いている、と言えなくはない。
 赤沢は、ほとんど毎回やる度に負ける。そして、また、楽しそうにやって来る。
 信治は、そんな赤沢を見ていると、「いいなよあ〜」といった、ほのぼとした気分になるのだが、同時に、何か、もどかしさのようなものも感じていた。

 「ほう、そう来たか」信治は心のなかでつぶやいた。
 岩山は、赤沢や麻雀好きであることも、長く打つのに異存がないことも知っている。それに、赤沢が自分には決して「ノー」とは言わないことも、先刻承知している。
 赤沢は以前、岩山の下で働いていた。つまり、経営者と従業員という主従関係にあったのだが、数年前に独立しているので、今は立場的に上下はない。しかも、ここはバクチの席である。
 しかし、元来、生真面目で律儀な性格なのだろう。赤沢は、たとえ、どんな場所や状況であっても岩山の言う事には逆らわないし、麻雀をしている最中でも岩山に対して軽口をたたくようなことはしない。
 負け分をチャラにした荒木はすでにアテにできない。ここはまず、赤沢を自分サイドに引き込み、「これは俺一人ではなく、俺と赤沢の『二人の意見』である」と、いうことを主張する。
 そして、もしも、本当にトイレ掃除をしなければならない段になれば、あと赤沢に押し付ける——。

 信治には、岩山の魂胆がミエミエだった。
 周りから「ボス」と呼ばれ、慕われている岩山だが、なにも「聖人君子」と、いうわけではない。
 生き馬の目を抜くような、このニューヨークで長年生き残ってきた男である。当然、それぐらいの、抜け目なさ、したたかさは持ち合わせている。
 信治は、そうした岩山の人間くさい部分に親しみを覚えるのだが、赤沢のことを思うと、少し気がひけた。

 「ねぇ、アカちゃん、本当にいいの?」
 信治は、赤沢に向かって、問いかけるように訊いた。
 「いゃ……、私は……」
 「よし、決まりだ!」
 赤沢がしどろもどろして、まだ喋り終っていない内に、岩山が割り込み、強引にまとめた。

 信治は、肚を決めた。
 「ようござんす。ボスが、そこまでおっしゃるんでしたら、トコトンお付き合いしましょう。その代わり、本当に、トイレの掃除はしてくださいよ」
 岩山は、信治の言った後半の部分は聞こえないかのように、「よーし、そうこなくちゃなあ。さあ、場替えだ、場替え」と、言いながら、「東」「南」「西」「北」の牌を一つずつ選び、裏側にひっくり返すと、手の中で掻き交ぜた。

 さらに10回戦のナキが始まった——。が、結果は、やるまでもなく、すでに明らかだった。
 負け分を取り戻そうとして、それが成功することは、まずない。特に、こうしたワンサイドの展開になった時は、いくらナキを入れても、どんなに長く踏ん張ったところで、形勢は変わらない。負けている側は、さらに傷口を広げ、その上に、からしと塩を塗り込むるようなものである。
 「麻雀」を、他に例えるなら、海で泳ぐことに似ていると、言えるかもしれない。
 上手く潮の流れに乗れれば、あとはその流れに身をまかせて泳げばいい。しかし、潮の流れに逆らえば、なかなか前には進まない。やがて、疲れて、力尽き、そして、最後は、沈んでゆく——。
 多少なりとも、麻雀やバクチに浸った経験がある者なら、それぐらいことは誰でもわかっている。
 しかし、植木・青島両先生が仰る通り、「——ちゃあ、いるけど、やめられない」のが、麻雀の面白いところであり、ギャンブルの怖いところでもある。また、そこで、やめられるほど賢明な人ならば、端からバクチに手を染めるような愚行は犯さないだろう。

 「いやー、お小遣い貰って、そのうえ、オレのうんこ掃除までしてもらうなんて、なんか申しわけないッスねえ」と、信治は笑いながら言った。「申しわけない」などと口にはしているが、そんなことは露にも思っていない。
 他の三人は返事もしない。
 約一ヵ月分の家賃と生活費を手に入れ、上機嫌なのは、信治ひとりだった。時刻は午前8時——。

 信治は、三人から集めたカネで場代を精算し、軽い足取りで階段を降り、表に出た。外は、すっかり明るくなっている。冷たいが風が吹いていたが、それが心地良く感じられた。懐が暖かくなった所為だろう。

 出口のドアの横に、赤沢が一人で立っていた。
 「あれっ、ボスは?」信治が、訊いた。
 「さあ、クルマを取りにいったんじゃない」と、赤沢は応えた。
 ニュージャージーに住んでいる岩山は、マンハッタンまで自分のクルマで来ている。

 二人はタバコに火をつけ、岩山を待った。
 「遅えなあ」信治は、独り言のようにつぶやいた。
 ——あと少しで、タバコが吸い終る。岩山のクルマはまだ現れない。
 「ヤロー」
 信治は、タバコを吐き捨てた。(続く)
Writer 黒須田 流
(原文まま)
*掲載号では、校正、編集したものを発行*
*お知らせ* 同コラムのバックナンバーは「アンダードッグの徒」のオフィシャルサイトの書庫に第1回目から保管してあります。お時間のある方は、そちらへもお立ち寄りください
2006年5月12日号(vol.122)掲載
by tocotoco_ny | 2006-05-10 07:11 | アンダードッグの徒
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