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vol.147/最悪—33<黒須田 流>

 「じゃ、まずは、カンパーイ」
 特に何を祝うわけではないが、みさきと美歩は、それぞれに白いワインが入ったグラスを重ねた。
 透明なグラスから「キ−ン」と金属を打ちつけたような音が響いた。
 美歩は、ワインをひと口飲むと、
 「さあ、遠慮しないで、たくさん食べてね」と、食事を、みさきに進めた。
 「はい。いただきます」と、言って、みさきは、スプーンやナイフが並んでいるランチマットからフォークを手にした。

 パスタは、エビとアスパラガスと玉ねぎのホワイトソースだった。
 パン、コンソメスープ、グリルしたチキンと数種類の野菜とトマトが入ったサラダ、マッシュルームに何かを詰めて焼いたもの……。
 みさきは、ダイニングテーブルの上に並んだ料理を見て、「これ、全部食べ切れるだろうか?」と、ちょっと心配しながら、サラダを食べ始めた。
 「おいしい!」みさきは、反射的に言った。お世辞ではなく、本当にそう感じた。
 「そう。気に入ってくれてよかった」と、美歩はニッコリ笑った。
 「このドレッシングも、美歩さんが作ったんですか?」みさきが訊ねると、
 「そうよ」と、応え、
 「もし、よかったら、あとで、作り方おしえてあげるわ」と、やさしい声で言った。
 「はい。ぜひ、お願いします」
 みさきの表情があまりに真剣なので、美歩は「そんな大したものじゃないわよ」と、微笑んだ。

 みさきは、スプーンとフォークを器用に使い、パスタを口に運んだ。
 その瞬間、みさきは、元々大きな目をさらに大きく広げ、小鼻を少しふくらました。すぐに何か言いたくて仕方がないのだが、口の中にパスタが入っているので、喋れない。急ぐようにして、パスタを噛み、食道に流し込むと、「おいしーい」と、叫んだ。
 「そんなに慌てないで。ゆっくり食べてね」と、美歩は、子供に諭すように言った。
 「すっごく、おいしいです」
 みさきは、それが、うそやお世辞ではないことをどうしても美歩に伝えたい、と切実に感じた。
 だから、「美味しい」に「すっごく」を付けるという、非常にわかりやすい表現になったのである。

 そして、カップに入ったスープを口にした時、みさきは、一瞬、クラッと、めまいのようなものを感じた。
 なんなのだろうこの味は……。具は何も入っていない。クリアなスープにパセリがほんの少し浮いているだけである。それなのに、なんとも言えない、しあわせな気分になった。
 「美味しい」
 みさきは、独り言のように言った。

 みさきは、これまでも何度か、美歩の手料理をご馳走になった。そのいずれも、みさきの舌を満足させるものであったが、どちらかと言うと、刺身や焼き魚といった、素材の味を活かした和食が中心だった。
 ニューヨークで独り暮らしを始めた、みさきには和食の方がよいだろう、という配慮だったのか、あるいは、夫である史郎も一緒だったので、史郎の好みを優先させたのかもしれない。
 今回、初めて、美歩の作った和食以外の料理を食べ、改めて、彼女の腕前に感心した。と同時に、「美味しい」という言葉でしか表現できない自分に、もどかしさを感じた。

 「美歩さんって、すごいですよね」
 みさきは、憧れの部活の先輩に話しかけるように言った。
 「えっ、なにが?」
 美歩は、首を傾げて訊いた。
 「だって、料理も上手だし、お部屋だって綺麗だし、それに、いつもきちんとしてるじゃないですか」
 みさきは、思っていることをそのまま美歩に伝えた。
 「そんなに褒めたって、もうこれ以上は、お料理でないわよ」
 美歩は、アスパラガスを刺したフォークを右手に持ったまま、テーブル越しに、みさきに顔を近付けた。
 けれど、それは、みさきの偽わりのない気持ちだった。

 みさきは、この部屋に来ると、モデルルームを訪れたように感じていたし、美歩がジャージを着ている姿はとても想像できなかった。
 
 美歩は、ワイングラスの底をテーブルに置いたまま、くるくる回し、少し考え、
 「……まあ、他にやることもないし、ヒマだからね」と、伏し目がちに言った。
 みさきが、初めて見る美歩の表情だった。 
 「みさきちゃんは、昼間からこんなワインなんか飲んで、駐在員の奥さんなんて、気楽なもんだって思ってるしょう」
 「いえ、そんなことは全然」
 みさきは、顔の前を飛ぶハエを追い払うかのような仕種で否定した。
 「ううん。べつに、みさきちゃんを責めたり、怒ってるわけじゃないから気にしないでいいのよ。私だって、端から見ていた時はそう思っていたし……。それに、実際、そういうトコもあるしね」
 美歩が、ニッコリと笑うと、並びのよい白い歯が見えた。そして、続けて、
 「でもね、ここでは、私達って『人』じゃない、って言うか、これはこれで結構たいへんだったりもするんだな」と、美歩は少しおどけたように言った。
 みさきは、美歩の言っている意味がよく理解できず、「はぁ……」と、曖昧に応えた。
 「みさきちゃん、『ソーシャル・セキュリティー』持ってるでしょう」
 「はい」
 「私達みたいな、『駐在員の奥さん』って、その『ソーシャル・セキュリティー』も取れないのよ」
 美歩の言葉には、悔しさとあきらめと、みさきに対する羨ましさが微かに混じっていた。 

 アメリカでは、一人一人に「ソーシャル・セキュリティー・ナンバー」という番号が与えられる。
 日本の「戸籍」のようなものがないので、その番号が、その人間の身分を証明する一つとされる。
 そして、就職、銀行口座の開設、アパートの契約、クレジットカードの取得、税金の申請、年金……等々、あらゆる書類・手続きには、この番号が必要となる。
 アンダーグランドの世界で生きるなら、ハナシは別だが、アメリカで、まともな社会生活をおくろうとするなら、「ソーシャル・セキュリティー・ナンバー」は不可欠なのである。
 みさきも、新しく銀行口座を開くために、ソーシャル・セキュリティーのオフィスに行き、「みさきの番号」を取得してきたのだった。

 「えっ、どうしてなんですか?」みさきは、素朴な疑問として、美歩に訊いた。(次号に続く)
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*お知らせ* 同コラムのバックナンバーは「アンダードッグの徒」のオフィシャルサイトの書庫に第1回目から保管してあります。お時間のある方は、そちらへもお立ち寄りください
2007年7月27日号(vol.149)掲載
by tocotoco_ny | 2007-07-26 11:46 | アンダードッグの徒
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