「じゃ、まずは、カンパーイ」
特に何を祝うわけではないが、みさきと美歩は、それぞれに白いワインが入ったグラスを重ねた。 透明なグラスから「キ−ン」と金属を打ちつけたような音が響いた。 美歩は、ワインをひと口飲むと、 「さあ、遠慮しないで、たくさん食べてね」と、食事を、みさきに進めた。 「はい。いただきます」と、言って、みさきは、スプーンやナイフが並んでいるランチマットからフォークを手にした。 パスタは、エビとアスパラガスと玉ねぎのホワイトソースだった。 パン、コンソメスープ、グリルしたチキンと数種類の野菜とトマトが入ったサラダ、マッシュルームに何かを詰めて焼いたもの……。 みさきは、ダイニングテーブルの上に並んだ料理を見て、「これ、全部食べ切れるだろうか?」と、ちょっと心配しながら、サラダを食べ始めた。 「おいしい!」みさきは、反射的に言った。お世辞ではなく、本当にそう感じた。 「そう。気に入ってくれてよかった」と、美歩はニッコリ笑った。 「このドレッシングも、美歩さんが作ったんですか?」みさきが訊ねると、 「そうよ」と、応え、 「もし、よかったら、あとで、作り方おしえてあげるわ」と、やさしい声で言った。 「はい。ぜひ、お願いします」 みさきの表情があまりに真剣なので、美歩は「そんな大したものじゃないわよ」と、微笑んだ。 みさきは、スプーンとフォークを器用に使い、パスタを口に運んだ。 その瞬間、みさきは、元々大きな目をさらに大きく広げ、小鼻を少しふくらました。すぐに何か言いたくて仕方がないのだが、口の中にパスタが入っているので、喋れない。急ぐようにして、パスタを噛み、食道に流し込むと、「おいしーい」と、叫んだ。 「そんなに慌てないで。ゆっくり食べてね」と、美歩は、子供に諭すように言った。 「すっごく、おいしいです」 みさきは、それが、うそやお世辞ではないことをどうしても美歩に伝えたい、と切実に感じた。 だから、「美味しい」に「すっごく」を付けるという、非常にわかりやすい表現になったのである。 そして、カップに入ったスープを口にした時、みさきは、一瞬、クラッと、めまいのようなものを感じた。 なんなのだろうこの味は……。具は何も入っていない。クリアなスープにパセリがほんの少し浮いているだけである。それなのに、なんとも言えない、しあわせな気分になった。 「美味しい」 みさきは、独り言のように言った。 みさきは、これまでも何度か、美歩の手料理をご馳走になった。そのいずれも、みさきの舌を満足させるものであったが、どちらかと言うと、刺身や焼き魚といった、素材の味を活かした和食が中心だった。 ニューヨークで独り暮らしを始めた、みさきには和食の方がよいだろう、という配慮だったのか、あるいは、夫である史郎も一緒だったので、史郎の好みを優先させたのかもしれない。 今回、初めて、美歩の作った和食以外の料理を食べ、改めて、彼女の腕前に感心した。と同時に、「美味しい」という言葉でしか表現できない自分に、もどかしさを感じた。 「美歩さんって、すごいですよね」 みさきは、憧れの部活の先輩に話しかけるように言った。 「えっ、なにが?」 美歩は、首を傾げて訊いた。 「だって、料理も上手だし、お部屋だって綺麗だし、それに、いつもきちんとしてるじゃないですか」 みさきは、思っていることをそのまま美歩に伝えた。 「そんなに褒めたって、もうこれ以上は、お料理でないわよ」 美歩は、アスパラガスを刺したフォークを右手に持ったまま、テーブル越しに、みさきに顔を近付けた。 けれど、それは、みさきの偽わりのない気持ちだった。 みさきは、この部屋に来ると、モデルルームを訪れたように感じていたし、美歩がジャージを着ている姿はとても想像できなかった。 美歩は、ワイングラスの底をテーブルに置いたまま、くるくる回し、少し考え、 「……まあ、他にやることもないし、ヒマだからね」と、伏し目がちに言った。 みさきが、初めて見る美歩の表情だった。 「みさきちゃんは、昼間からこんなワインなんか飲んで、駐在員の奥さんなんて、気楽なもんだって思ってるしょう」 「いえ、そんなことは全然」 みさきは、顔の前を飛ぶハエを追い払うかのような仕種で否定した。 「ううん。べつに、みさきちゃんを責めたり、怒ってるわけじゃないから気にしないでいいのよ。私だって、端から見ていた時はそう思っていたし……。それに、実際、そういうトコもあるしね」 美歩が、ニッコリと笑うと、並びのよい白い歯が見えた。そして、続けて、 「でもね、ここでは、私達って『人』じゃない、って言うか、これはこれで結構たいへんだったりもするんだな」と、美歩は少しおどけたように言った。 みさきは、美歩の言っている意味がよく理解できず、「はぁ……」と、曖昧に応えた。 「みさきちゃん、『ソーシャル・セキュリティー』持ってるでしょう」 「はい」 「私達みたいな、『駐在員の奥さん』って、その『ソーシャル・セキュリティー』も取れないのよ」 美歩の言葉には、悔しさとあきらめと、みさきに対する羨ましさが微かに混じっていた。 アメリカでは、一人一人に「ソーシャル・セキュリティー・ナンバー」という番号が与えられる。 日本の「戸籍」のようなものがないので、その番号が、その人間の身分を証明する一つとされる。 そして、就職、銀行口座の開設、アパートの契約、クレジットカードの取得、税金の申請、年金……等々、あらゆる書類・手続きには、この番号が必要となる。 アンダーグランドの世界で生きるなら、ハナシは別だが、アメリカで、まともな社会生活をおくろうとするなら、「ソーシャル・セキュリティー・ナンバー」は不可欠なのである。 みさきも、新しく銀行口座を開くために、ソーシャル・セキュリティーのオフィスに行き、「みさきの番号」を取得してきたのだった。 「えっ、どうしてなんですか?」みさきは、素朴な疑問として、美歩に訊いた。(次号に続く) (原文まま) *掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行* *お知らせ* 同コラムのバックナンバーは「アンダードッグの徒」のオフィシャルサイトの書庫に第1回目から保管してあります。お時間のある方は、そちらへもお立ち寄りください 2007年7月27日号(vol.149)掲載
by tocotoco_ny
| 2007-07-26 11:46
| アンダードッグの徒
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