■紳士とハンマー
品の良い紳士が、パーキングメーターにしがみついている姿は目立つ。 角の花屋の前で、紳士はしゃがみ込んでいた。日付も変わろうとする夜中である。24時間営業の花屋のライトが、紳士を容赦なく照らしている。紳士は、抱きつくように両腕をパーキングメーターに絡ませていた。 遠目からもその紳士の姿は容易に見ることができた。私は、友だち数人と一緒だった。近づく程にその異様さを一層強く感じたが、会話の声を少しだけ潜めはしても止めることはせず、 私たちは一旦は通り過ぎたのだった。 花屋を過ぎて角を曲がり、紳士の姿が見えなくなってから、私たちは誰とも無く立ち止まり、引き返すことにした。通り過ぎてみると、紳士が自ら好んでパーキングメーターにしがみついているのではないと分かったのである。 NYにいると、何が普通で何が普通でないか、どこに常識の線引きをするべきか、わからなくなることが多々ある。自分が普通のつもりでいても、実は変わっているのは自分の方ではないか。そう感じる時がある。だとしても、それを恥じ入るとか他に合わせるとか、そんな必要は全くないのも又、NYなのである。 そんな理由で、パーキングメーターにしがみつく紳士の姿を最初に見つけた時も、紳士にとっては普通のことなのかもしれないと思った。何か目的があってやっているのだろうと思ったのである。しかし通り過ぎて、違うと分かった。おかしいと思った自分の感覚が、今回は正しかった。 引き返した私たちは、紳士に話しかけた。 大丈夫か。家はどこか。タクシーを掴まえようか。 それらの質問に紳士は面倒くさそうに急いで答えた後、立ち上がるのを手伝って欲しいと言った。それだけで十分だからと。逼迫しているのが紳士の表情から見て取れる。私たちは、腕に手をかけ、脇に頭をもぐらせ、かけ声とともに紳士を持ち上げたが、紳士の足はまるで力が入らないのだった。 紳士は酔っているわけではない。きちんと刈られた白髪に上等のスーツを着込み、品の良さがにじみ出ている。この状況に、不甲斐なさを一番感じているのは紳士本人であることは、誰の目にも明らかだ。 その後も何度か紳士を立ち上げようと試みたが、結果は同じだった。私たちは紳士をタクシーに乗せ家まで送ろうと、住所や家族の有無を尋ねるも、相変わらず紳士は適当に答えをはぐらかし、ついにはどうぞ放っておいて欲しいと拝むように言ってきた。 これ以上紳士を手伝おうとすることは、ただ彼のプライドを傷つけるだけなのだ。誰もそう口にはしなかったが、私たちは揃ってその場を去った。 再び、 花屋を過ぎて角を曲がり、紳士の姿が見えなくなってから、私たちは誰とも無く立ち止まった。友だちの一人が、おもむろに口を開く。紳士の背広のポケットにハンマーが入っていた、と。 重く漂っていた空気が一気に和らぐ。あの紳士がハンマーを持っていた。意外な事実に、滑稽さすら漂う。そのハンマーが重過ぎて立ち上がれないでいるのだろうと、私たちは思い込むことにした。あの状況から紳士が抜け出せないでいるのは、紳士のせいでも私たちのせいでもない。紳士のポケットにあるハンマーのせいなのだ。 翌朝、私は一人でその場所に行ってみた。そこに紳士はいなかった。昨夜紳士に絡まれていたパーキングメーターは、何事も無かったかのようにすっくと立っていた。 (原文まま) *掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行* *同コラム作者のブログ「今日見た人、会った人」にもお立ち寄りください。 2007年8月17日号(vol.150)掲載
by tocotoco_ny
| 2007-08-13 13:33
| 無名の人々
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