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vol.08/無名の人々<aloe352>

■いつもの道で
その女性を見るのは、初めてではなかった。地下鉄の駅へと向かう道の途中に彼女の家はある。いつもそこを通るたび、玄関の外に置いた椅子に腰掛け、彼女は通りを眺めているのだ。白髪のおかっぱ頭に褐色の痩せた身体が、緑色の背もたれと妙に合っていて印象的だっだ。

そんな彼女が私に声をかけてきたのは、私が駅へと急いでいる時だった。珍しく門扉に寄りかかり立っている彼女の姿は私の視界に入っていた。通り過ぎようとした瞬間、彼女が口を開いたのだ。
「あなた、そこの角まで行くの?」
驚いて立ち止まり、私は角を曲がって駅まで行くことを告げた。
「一緒に行っていいかしら?」
訝りながらも私は「もちろん」と答えた。わざわざ誰かと一緒に行くほどの距離でもない。角はもうすぐそこなのだ。しかし断る理由もない。
彼女はおぼつかない足どりで門扉から離れ、私の腕を掴んで言った。
「あなたに掴まっていいかしら?」

ちょっとそこまで行くのに、一緒に行く誰かが必要な訳は、歩き出してすぐに分かった。彼女はゆっくりゆっくり歩く。そしてゆっくり歩くのにさえ、何か支えが必要であるのだ。
私は時間が気になった。この調子だと予定に遅れるかもしれない。なぜ安請け合いしたのだろう。少し後悔したが、親切な人に会えて良かったわと、満面の笑みで言う彼女を見ると、今さら腕を振りほどくこともできなかった。

あれはいつだったか、彼女が娘らしき女性と玄関先で話しているところに偶然通りがかったことがある。娘はさっさと彼女を車に乗せて出かけたいようだったが、彼女がコートを持っていくと言って聞かない。
「夏なのに何でコートがいるのよっ!」
娘の罵声にも、彼女は決してコートを放そうとはしなかった。
あの時の頑として自分の意志を通す鬼のような彼女の表情が、ずっと記憶に残っている。

結局、私と彼女は腕を組んだまま、角を曲がり駅を過ぎ、その次の角にある教会まで行った。更にはその教会の広大な敷地に入り、彼女に促されるがまま、デイケアの会場らしき部屋まで彼女を送り届けた。
その間ずっと彼女は饒舌だった。そして楽しそうだった。彼女は私に、デイケアにも一緒にいて欲しそうだった。私の腕を放さないのだ。見かねたスタッフが引き剥がすように彼女の肩を引っぱり、「もう行って」と、私の耳元でささやいた。

それから、私は走って駅に向かい地下鉄に飛び乗った。椅子に座り、いつかの鬼のようだった彼女と、少女のようにはしゃいでいた今日の彼女を思い出す。地下鉄に揺られながら、そのどちらもが幻であったかのような感覚に陥った。ふと、彼女が掴んでいた私の左腕から微かにアンモニア臭が漂った。私は現実に戻された。
次に彼女の家の前を通るとき、彼女は私を覚えているだろうか。又一緒に歩いていいかと、声をかけてくるだろうか。それとも、彼女は椅子に腰掛けたまま、毎日眺める景色の一部に過ぎない私を、黙って見過ごすのだろうか。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*同コラム作者のブログ「今日見た人、会った人」にもお立ち寄りください。
2007年11月30日号(vol.157)掲載
by tocotoco_ny | 2007-11-29 16:19 | 無名の人々
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