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vol.159/絆(その1)<黒須田 流>

 自分では若いつもりでいても、四十も半ばとなれば身体のアチコチにガタがくる。
 病院に行けば老眼だと診断されるし、いつも髪を切ってくれるヘアーデザイナーさんには白髪が増えたねえと言われる。筋肉は落ち、身体の張りはなくなり、回復力も衰えた。性欲はあるにはあるが、昔のように1日に何回も頑張れる程の元気はない。
 そして最近、また改めて歳をとったと感じることあった。
 それは、涙腺がゆるくなったことである。
 知り合いのSさん宅にはメジャーからマイナーまで日本のDVDが豊富に揃っており、私は彼女の部屋にお邪魔する度にいろいろなドラマや映画を見せてもらう。以前の私なら「こんなクセェの、ふざけんなよ!」と吐き捨ていたようなベタなシーンでも、近頃はジーンとしてしまうのである。おいおい、俺はなんでこんな場面で、うるうるしてるんだ?と、自分自身でも不思議で仕方ないのだけれど、とにかく涙もろくなっている。特に子供や健気な娘が辛く悲しい目にあったりすると、もうダメなのである。たとえ制作者たちの小賢しいミエミエの手口だとわかっていても、涙が零れそうになる。また周りには、気心の知れたSさんだけしかいないとはいえ、人前で涙を流すことなど、若かりし頃には到底考えられなかった。
 さて、さまざまなところで老いを感じたり、ショックを受けたりしているのだけれど、何も私だけが特別なわけではなく、誰もが、こうして死に近づいていくのだろう。
 然りとて、夢や希望がまるでなくなるほど枯れ果てた、というわけでもない(たしか「人間が最期にかかるのは『希望』という名の病です——という名言を残したのはウイリアム・サローヤンだったか……)。
 年齢的なこともあり、さすがに将来は大金持ちになりたいとか、メジャーリーガーになって、ヤンキースで活躍するんだとか、ミュージシャンになって、一発当ててやるぜベイビー、といった無謀な夢を抱けるほどの若さやバカさは無くなったけれど、残された時間の内でなんとか実現したいものだと願っているいくつかの夢や希望は持ち合わせている。
 
明日の夢あるいは希望その1
 きれいな夕焼けを見ながら河原の土手を親子3人で手をつないで歩く。
 もちろん、ポジション的には子供が真ん中である。お母さん役(?)の女性はもう片方の手には買い物かごを提げていて、そこから夕食用に使うと思われるネギがのぞいていてもよい。絵面的には結構ベタであるけれど死ぬまでには是非一度これをやってみたい。
 はっきりと覚えてはいないが、これを思い描くようになってから随分と経つ。
 ただ、このシーンを思い浮かべる時、いつも私は、土手の下から3人の後ろ姿を見送っている。私を含め三人が主役であるはずなに、なぜか私は傍観者の視線で眺めている。すると、子供と手をつないでいるお父さん役の男性は一体誰なのだろう……?と、考えてしまったりもする。
 結婚をして温かい家庭を築きたい気持ちがないわけではないけれど、べつに「親子」や「家族」でなければならい、というわけでもない。
 じゃあ、ただ単に何かの場面を切り取ったように、3人で手をつないで夕日の河原を歩ければ、それで満足かと訊かれれば、そうでもないような気がする。
 そこが難しいところである。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*お知らせ* 同コラムのバックナンバーは「アンダードッグの徒」のオフィシャルサイトの書庫に第1回目から保管してあります。お時間のある方は、そちらへもお立ち寄りください*連載小説「最悪」は筆者の勝手な都合で、暫くの間、休載しています。
2008年2月29日号(vol.161)掲載
by tocotoco_ny | 2008-02-28 13:51 | アンダードッグの徒
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