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vol.163/絆(その5)<黒須田 流>

(1)夕焼けを見ながら河原の土手を親子3人で手をつないで歩く。
(2)女房の着物を質屋に入れる。
(3)ちゃぶ台をひっくり返す。
 以上、3つが私が抱いている夢あるいは希望と呼ばれるものである。もちろん、私は欲深い人間なので他にもやりたい事や見たい物は山のようにある。けれど四十路も半ばにさしかかり、肉体的な衰え、現実的経済力、己の能力、残された時間……その他、諸々の事柄を考慮すると、死ぬまでに最低限この3つを実現できたならば本懐を遂げられたような気がする。
 さて、(1)はともかく(2)や(3)になると、なかなか女性の理解は得られないかもしれない。今時そんなことをしたら愛想を尽かされるどころか、ヘタすれば「DV」と訴えられてしまう。
 誤解を避けるために少し補足するならば、私は何も暴力的な振る舞いをしたいとか、サディスティックな癖があるというわけでもない。これらはあくまでも具現・具象として表現だけである。
 若い人達には信じられないかもしれないが、ほんの30、40年ぐらい前の日本では(2)や(3)が日常茶飯事のような夫婦や男女が実在していた。それが決して良い事だとは思わないし、当時は女性の社会的立場が不当に低く、否応無しに我慢していただけという見方もできるだろう。
 ただ、理由はさておき、いくら妻や女とはいえ、余程の信頼や覚悟がなければそうそう身勝手な振る舞いが出来るものではないだろうし、そうした無茶苦茶が許される関係に強さや憧れを感じる。
 つまり、たとえ不条理・理不尽であっても揺らぐことのない絆で結ばれた相手と巡り会いたい。そうした関係が死ぬまでに築けたら……と、いうことである。
 私の周りにも既婚者はいる。誕生日やクリスマスや結婚記念日にはプレゼントを欠かさず、年に数回は家族で旅行する。世間からすれば、円満な家庭、良き夫、良き父ということになのだろう。しかし、私には彼等がどこか無理して演じているようにしか見えない。
 また、子供は夫婦の仲をつなぎ保つ、という意味で「子は鎹(かずがい)」などと言われる。たしかに夫婦にとって子供の存在は大きいだろうが、それなら「は」ではなく「が」の方が納得できるような気もする。
 どんな生き方を選ぶかは本人次第だし、人との関わり方もそれぞれ違うけれど、無理して演じたり、サービスしたり、子供に頼らなければ維持できないような脆弱な関係は、私にとって邪魔な存在以外の何物でもない。 
 私がハナタレ小僧だった頃に比べて、今の日本人の生活は豊かでスマートになった。ケータイとかコンピュータとかインターネットとか、何かと便利な世の中にもなった。それが悪い事だとは言わないし、時流に逆らってまで生きようとも思わないが、人と人との絆、男と女の関係はどんどん希薄になっているように感じる。
 「利」を越えた強い絆は、生身の人間同士が互いの弱さや狡さ、醜さを曝け出し、傷つけ合い、痛みを伴いながら時間をかけて形成されていくもので、ボタンひとつ、指先ひとつのコミュニケーションで簡単に培われるものではないのだろう。もちろん、その途中で割れたり、壊れたりするリスクは多分に含まれている。
 死ぬまでにそんな絆を……と思うのだが、これがなかなか難しい。
(原文まま)
*掲載号では、誤字、脱字は校正し、編集したものを発行*
*お知らせ* 同コラムのバックナンバーは「アンダードッグの徒」のオフィシャルサイトの書庫に第1回目から保管してあります。お時間のある方は、そちらへもお立ち寄りください*連載小説「最悪」は筆者の勝手な都合で、暫くの間、休載しています。
2008年4月25日号(vol.165)掲載
by tocotoco_ny | 2008-04-24 10:20 | アンダードッグの徒
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